沢木耕太郎が「はじめての旅」で経験した「親切」とは?――最新刊『飛び立つ季節 旅のつばくろ』からエッセイを特別公開!

文芸・カルチャー

公開日:2022/6/30

「旅のバイブル」の名をほしいままにしている不朽の名作『深夜特急』(新潮文庫)。その著者、沢木耕太郎氏が北へ南へ、この国を気の向くままに歩き続けた「国内旅エッセイ集」、『飛び立つ季節 旅のつばくろ』(新潮社)の中から、極上のエッセイを一篇お送りします!

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旅のリンゴ

 旅先で出会う人には、「善い人」もいれば「悪い人」もいる。でも、どちらかといえば「善い人」の方が多いと思う。いや、もう少し大胆に言ってしまえば、私は「悪い人」にほとんど遭遇したことがない。そう、私は、旅における「性善説」の持ち主なのだ。

 十六歳のときの東北一周旅行では、上野から乗った奥羽本線の夜行列車を秋田駅で降りた。

 降りた私が、どのような行動をとったのかは覚えていない。いずれにしてもどこかで朝食をとったと思われるが、駅によくあるような立ち食いそば屋に入ったのか、売店で菓子パンでも買って食べたのか。

 わかっているのは、その朝、秋田駅から男鹿半島の寒風山に向かったということだけだ。

 しかし、情けないことに、何という名の駅で降り、どのように登っていき、頂上がどのような風景だったかほとんど覚えていない。

 ただひとつ、映画のワンシーンのように映像として覚えている情景がある。

 三月下旬だというのに、道路の両脇にはまだ雪が積もっている。その坂道を、少年の私がザックを背負い、汗を流しながら歩いていると、不意に一台のダンプカーが停まる。そして、窓が開くと、運転手が声を掛けてくれる。

「乗りな」

 私が助手席に乗り込むと、その車が本道をそれる地点まで乗せてくれる。そして、私が寒風山の頂上まで登ったあとでその坂道を下っていると、またダンプカーが停まる。

「乗りな」

 声を掛けてくれたのは、驚いたことにさっきと同じ運転手だった……。

 今年の六月、奥羽本線で秋田に向かった私は、五十数年前のそのときとほぼ同じ時刻に寒風山に登ってみようと思った。

 調べてみると、寒風山には男鹿線の脇本なる駅で降り、タクシーで行くしかないという。だが、当時の私がタクシーに乗ったはずはない。ところが、さらに調べてみると、脇本駅から出る地元のバス路線に、寒風山入口という停留所がある。もっとも、入口とは名ばかりで、そこから山頂まで三、四十分は山道を登らなくてはならないらしい。しかし、バスになら乗った可能性はある。たぶん、そこから歩いたのだ。

 秋田で一晩泊まった私は、翌朝、八時四十三分発の男鹿行きで脇本駅に向かった。

 乗ったのは二両編成の電車だった。もともと少なかった乗客は、途中の駅でぽつぽつ降りていき、脇本駅の手前では数人になっていた。

 脇本駅で降りたのは、私以外に、小さなザックを背負い、スポーツシューズを履いた若い女性だけだった。

 私が駅前に停車していたバスに乗り込むと、その若い女性も乗り込んでくる。ひょっとすると彼女も寒風山に登るつもりなのかもしれない。だとすると、同じ山道を前後しながら登ることになる。それはちょっぴり鬱陶しいなと思った。

 たった二人の客を乗せて、バスは定時に出発した。

 まったく記憶のない道を十分ほど走ると、寒風山入口という停留所に着いた。

 私は降りたが、若い女性は乗りつづけたままだ。どこか、さらに奥に入っていくらしい。

 ほっとするやら、肩透かしを食ったような、不思議な気分のまま、寒風山の頂上に向かう道路を歩きはじめた。

 歩いている人など誰もいない。それは五十数年前と同じだった。

 しかし、あのときは道の両脇に雪が積もっていた。そうだ、あのときは、喉が渇くと、少し排気ガスに汚れたような外側の部分を払いのけ、手を奥に突っ込み、ザラメのようになった雪を口に含んだものだった。

 六月のいま、もちろん道の脇には雪などなく、木々の緑が眩しいまでに萌えている。

 二十分ほど歩くと左に曲がる道があり、その奥に石材の切り出し場があると記された標識が立っている。

 あのとき私を乗せてくれたダンプカーが、途中で私を降ろすと左に曲がったことは覚えている。あるいは、あのダンプカーも、切り出した石材を運搬していたのかもしれない。

 そこをさらに歩きつづけていくと、不意に鬱蒼とした樹林帯が途切れ、明るく開けたところに出てきた。

 山というよりは丘と言った方がいいような頂上に、展望台風のものが見える。私にまったく記憶がないところからすると、あのときはまだできていなかったのかもしれない。

 私はその寒風山の頂上に向かってゆっくりと歩きつづけた。だが、車はときどき通りかかるものの、その一台が突然停まり、「乗りな」と声を掛けてくれるなどということは、もちろん起こらなかった……。

 十六歳のときの東北旅行ではさまざまなところでさまざまな親切を受けた。短い言葉で、あるいは無言のまま、少年の私を労るように手を差し伸べてくれた。

 旅先における私の性善説はこのときの東北旅行が決定的に影響しているように思う。

 いや、もうひとつ。

 登りも下りも私を乗せてくれたダンプカーの運転手は、駅の近くで私を降ろしてくれる際、運転席の前に置いてあったリンゴをひとつくれた。

 私は東北を一周する旅の間中、そのリンゴをザックの中に入れておいた。もし何も食べる物がなくて空腹になっても、まだあのリンゴがあると思うと安心だったのだ。

 のちに、私は、旅先で長い距離を移動する際、ザックの中に、水以外にリンゴをひとつ入れておくようになった。もしかしたら、その「旅のリンゴ」も、このとき貰ったリンゴが影響しているのかもしれないとも思う。