「ふんどし」は立派な仕事着だった!? 男たちの下着にまつわる歴史を辿る!
公開日:2022/7/8
「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」とは、明治のはじめ頃の歌の一節。この一節から思い浮かぶのは、ちょんまげを切って洋服を着るという光景ではないだろうか。もちろん、和装から洋装への変化が段階的なのはわかっているつもりなのだが。
多くの日本人にとって、初めての洋装は軍人や官僚らの制服。それから少しずつ、背広、休日の外出着へと広がっていった。
では、男性の下着の洋装化事情はどうだったのか? この疑問を解き明かすのが『ふんどしニッポン 下着をめぐる魂の風俗史』(井上章一/朝日新聞出版)だ。著者・井上章一氏の幼い頃(1950年代)の記憶、「風呂屋の脱衣所で、ふんどし姿の男たちを見かけたことがある」をキーに、男性の下着の変遷を探った一冊となる。
まずは、幕末から明治初期。1800年代後半、欧米に渡った使節団や留学生の姿は和装だ。彼らが血判を捺した国の誓約書には、「本朝の風俗を改めまじきこと」という文言が残っていたそうで、要するに、西洋に行っても正しい日本の恰好をしていなさいというわけだ。しかし、彼らの多くは西洋で好奇の目にさらされることに耐え難くなり、洋装で過ごしていたという。
さらに彼らは、同行させた下男がふんどしひとつでパリの街を歩く姿に恥ずかしさを覚えたというのだ。日本では感じることのなかった、「ふんどし一丁が恥ずかしい」という感覚だ。逆の言い方をするのなら、当時日本ではふんどし一丁で外を歩いても、はしたない姿ではなかったということになる。庶民はもちろんのこと、使節団や留学生に選ばれるようなエリート階級であっても、ふんどしは下着ではあるが人に見せてもよい恰好だったのだ。
漁師も農家も大工も左官も多くの働く男たちの恰好が、ふんどし一丁だったことは、明治・大正・昭和初期の写真を見るとよくわかるという。さすがに冬の寒い日には上着を着ただろうが、ふんどしは、正しい仕事着でもあったようだ。
では、ふんどしはいつまで活躍したのかというと、1930年頃までとか。とはいえ、1950年頃の時代劇映画のポスターには、ふんどしがいなせなものとして描かれている。しかしこれは、ふんどし着用者が減ったからにほかならない。また著者は、下着の洋装化を探る上で水着の変遷にも注目している。その変遷はここではとても紹介しきれないが、その着眼点は柔らかくて気持ちが良い。
以上、大まかだが、ふんどしからパンツへという下着の洋装化を覗いてきたが、もうひとつ面白い現象を本書は紹介している。
ふんどしの活躍は1930年頃までだが、実はこれとは真逆の「ふんどし礼賛現象」が一部で起きていたという。その一部とは、19世紀末から1945年までの軍隊、つまり大日本帝国の陸海軍だ。軍服という洋装で西洋由来の兵器を操ろうとも、精神までは西洋に流されずに日本古来のものを堅持すべきとされ、日本の魂の象徴として、ふんどしが引き立てられたそうだ。
徴兵検査にはパンツ姿で臨んだ人も、入隊が決まると、ふんどしを着用。1940年代に撮影された写真の兵士たちは、ふんどし一丁で馬を洗ったり物資を運んだりしている。こうした写真は、軍の検閲の上でマスコミ等に出ているので、軍がふんどしを恥ずかしい恰好どころか、男らしさを誇る凛々しい恰好だととらえていたことがわかるという。このような「ふんどし礼賛」は、自然と世の中にも影響を与え、「パンツは軟派な下着で、ふんどしは硬派で男らしいもの」とする意識が、戦後しばらくまでは一定の年齢層の間にあったと著者は述べている。
ふんどしは、単なる下着ではない。こうした感覚は、無意識の内に芽生え、知らない間に歴史から消えていく。いわば文字に残りにくい歴史だ。著者は、雑誌や新聞の挿絵や写真を相当数集め、本書を著したようだ。これを力作と言わずに何と言おうか。
文=奥みんす