利休が切腹した理由は12以上の説がある!? 茶の歴史と密接な武士の権力社会
公開日:2022/7/9
とある茶道の流派の友人から、暑い季節に美味しい茶を点てる方法を教わった。師匠直伝だそうで、それはペットボトルに抹茶と冷水を淹れて激しく振るというもの。「わび」や「さび」は……!? と一瞬驚いたが、確かに素人の私が慣れない茶筅(ちゃせん)で点てるより断然美味しい。本稿で取り上げる『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(田中仙堂/文藝春秋)は、茶をテーマにしながら「わび」や「さび」の側面ではなく、「信長」と「秀吉」と、有名な茶堂(さどう)の一人「利休」について論考した一冊である。著者は大日本茶道学会会長として茶道文化普及に努める傍ら、徳川美術館において歴史や美術の研究をしており、本書の観点は「茶の政治」に注がれている。
「茶」は、公家に対する武家の「下剋上」
下剋上という言葉は、鎌倉幕府が滅亡した後の建武政権下(1333~36年)で二条河原に掲げられた「二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)」に出てくる。「落書」とは、政治や社会などを批判した文のことで、下剋上は「偉い人に追従しながら上の地位を狙う者、偽りの訴えをしてでも上の地位の者を引き下ろす人間」を指すとのこと。そして、この落書には武士について「近頃でてきたやつらのくせに」といった、批判的な視線が充満しているそうだ。
茶についても、「鎌倉の田舎くんだりで流行っていたもののくせに、この都でも、ますます増えている(なんてこった)」と書かれているという。当時の茶は、茶の産地を飲み当てる博奕(ばくち)の一種で、茶道史では「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれていたというから、そういった反応も理解できる。そんな茶を、伝統文化へと押し上げるきっかけを作ったのは、室町幕府三代将軍・足利義満だ。武士が和歌にいそしんでも、都では「所詮、田舎者が急に和歌を勉強したって、やってることはめちゃくちゃだ」と冷たく視られていた。自分たちの文化の方が優れていると考える人たちに、新興勢力が自分たちの文化を認めさせるために義満が取った手法は、権威付けである。
メディアとして活用した信長の茶会
義満が造営した北山殿には、天鏡閣と呼ばれる2階建ての建物があり、人と会う「会所」として利用された。そこには、「唐物(からもの)」と云われる舶来の調度品が揃えられ、その中に茶器もあった。舶来品は、平安時代から公家たちも尊重してきたから文句を付けられないし、茶という新ジャンルに唐物を組み合わせることにより、「相手の得意なところで認めてもらおうとむなしい努力をするよりも、相手が知らないところで勝負しよう」としたのである。華道や能など、武家文化を起源に持つこれらも同様だったという。
能は織田信長も好み、その信長に足利義満が所持していたとされる「つくもかみ(つくも茄子)」という名物茶入を松永久秀が献上することにより、茶は政治の表舞台に立つこととなる。ただし、その伝来は久秀が禅僧に依頼して作らせた『作物記(つくものき)』に記されているもので、本当かどうかは分からない。重要なのは、文物が誰の手を経た物であるのかということだ。たとえば信長は、朝倉氏を滅ぼした折には朝倉氏が所有していた掛け軸を茶会で披露した。メディアが発達していなかった当時、有力者を茶会に招き、戦利品を見せることで自身の勝利を広く知らしめたという。
秀吉政権下で利休が追放された理由とは?
茶会を政治的メッセージを発する場として利用した信長の茶堂を務めた千利休は、本能寺で信長が明智光秀に討たれた後、豊臣秀吉に召し抱えられることとなる。秀吉が利休を気に入っていたというのもあるだろうが、それは自身を信長の後継者であると表明する狙いもあったと考えられるという。ところがその利休は後年、堺に追放されたあげく切腹に追い込まれてしまう。著者が利休に関する講演を行なうと、参加者からは「利休の死の真相はなんでしょう?」と質問されることが多いものの、それは一番されたくない質問だそうだ。何故なら、荒唐無稽な説を排しても12説あり、そのうえ近年では切腹そのものを否定する説さえ出てきて混迷を極めるからだ。
そんな中で私が特に面白いと思ったのは、利休の増長ぶりを示すエピーソードだ。武将の大友宗麟(そうりん)が、秀吉の異父弟である秀長や宇喜多秀家などとともに秀吉の茶会に招かれ、手前は利休が行なった。その席で一服した宗麟に秀吉が「茶ハスキカ」と尋ねると、なんと利休が宗麟に代わって「中々数寄之由」(好きです)と答えたという。茶堂は亭主に代わって茶を点てる役割とはいえ、まるで利休だけが秀吉に直接ものを言える存在であるかのように振る舞うのは異様な光景ではなかったか。秀吉自身が、そんな利休を疎ましく思ったのかもしれないし、秀吉を慕う石田三成らの重臣が追い落としにかかったとも考えられる。
本書は、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人の戦略を「茶」で読み解いた新しい戦国史で、そのうえ茶の歴史をも知ることもでき、まるで濃茶のように誰かと分け合いたくなる一冊であった。
文=清水銀嶺