夫と息子の3人暮らしの専業主婦が、2年近く練っている計画/財布は踊る①

文芸・カルチャー

公開日:2022/7/27

専業主婦の葉月みづほは、夫と息子の3人暮らし。ある夢のため、生活費を切り詰めながら月2万円を貯金し、ついに実現! …したはずだったが、なんと夫の借金が発覚し…。

大ヒット作『三千円の使いかた』の著者・原田ひ香氏が、「今よりすこし、お金がほしい」人々の切実な想いを描く長編小説!

※本稿は原田ひ香著の小説『財布は踊る 』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

財布は踊る
財布は踊る』(原田ひ香/新潮社)

第一話 財布は疑う

 葉月みづほはルイ・ヴィトンの財布が欲しい。

 浴室のシャワーって最初にお湯を出す時、温度が上がるまでしばらく時間がかかりますよね。いったい、どのくらいの水が流れているのでしょう? あなたは自分の家のシャワーがお湯になるまで、何リットルの水が無駄になっているのか、正確に知っていますか?

 我が家(平均的なマンションです)のシャワーの場合は、六リットルです。季節などで多少の変化はありますが、冬でも夏でも一リットルくらいの誤差しかありません。

 なぜ、それがわかるかと言いますと、私は一度、家中の洗面器、ボウル、グラスなどを使ってその量を量ったからです(結構、大変でした)。六リットルとわかってからは、それだけの水が入るじょうろを買って(通販で九百円ほど)その水を入れ、翌日、ベランダの草花や野菜の苗にあげています。

 家の形態や地域によって差はあるかもしれませんが、多かれ少なかれ、あなたもそのくらいの水を毎日捨てているはずです。

 金銭的にはたいした額ではありません。でも、意識的に「六リットルだ」と思っているのと、無意識に流しているのではまったく意味が違います。何より、水がもったいない(笑)。資源有効活用の観点からも、ぜひ、今日からはあなたもこの六リットルを何に使うか考えてみませんか。

 さて、今月の財布はシャワーの水、水回りにちなんで「水色」の財布について。

 水色の財布は、まさに「水」につながります。風水で「金」は「水」に交わると増えると言われ、水色の財布は悪くありません。一方で、水は「水に流す」「水の泡となる」などなくなってしまうもののたとえでも使われるもの。水色の財布でお金をなくすことがないようにしたいですね。

 みづほは小さなため息をつきながら、「善財夏実のお財布からこんにちは」のコラムを読み終え、雑誌を棚にもどした。

 毎月一日に発売になる、主婦の節約雑誌「KATE(ケイト)」を発売日に図書館で読むのは最高の楽しみだ。発売日、図書館の開館と同時に入れば、ほとんど待つことなく読むことができる。発売されたばかりの雑誌は貸し出しができないが、閲覧させてもらえる。特に気に入った記事があれば、そのまま貸出予約を入れることもあった。

 みづほが棚に戻した「KATE」を、瞬時に手に取った女がいた。手が触れそうになって目が合ったので、反射的に会釈してしまう。その時、ふわりと良い香りが鼻をかすめた。みづほとほぼ同じ年代だが、子供は連れていない。彼女も「KATE」の読者だけれど、毎号買うほどの贅沢は許されない主婦なのだろうか。

 彼女はみづほとは二つ離れた席に座り、「KATE」を開いた。その傍らに、真新しいルイ・ヴィトンのバッグがさりげなく置かれているのをみづほは見逃さなかった。あの特徴的なLとVを組み合わせた模様は女なら決して見逃さないだろう。一時は購入するために、女子高生が援助交際するという社会現象まで起こしたブランドだ。

 高校時代、みづほの仲良しグループの中でも、一番美人で実家がお金持ちの子が親と海外旅行をした際に長財布を買ってきたことから、急に流行りだした。五人グループで、自分以外の友達は皆、持っていた。それでも、みづほが長財布を手にすることは叶わなかった。母子家庭で家計が厳しく、母にねだることはできなかったからだ。

 一緒のグループにいても、みづほがずっと疎外感を感じていたのはそのせいばかりではないと思う。入学して最初に座った席が近くだっただけでなんとなく仲良しになり、趣味も家庭環境も共通点はないグループだった。でも、そこを外れてしまうと、教室に居場所がなくなってしまうから、必死だった。授業などで二人組を作るようなことがあると、いつもみづほが一人あまって別のグループの子と組むことになった。自分はグループで浮いている、とひしひしと感じた。卒業してから、その誰にも会っていない。

 その後入学した専門学校でも会社でも、普通に友達はできた。今でも連絡を取り合っている人もいる。決して、人付き合いができない人間ではないはずだ。自分が高校の時、微妙に「ハブられてる」立場になったのは時の運だと思う。中学や高校というのは、ごくわずかなボタンの掛け違いで仲間はずれになってしまう、残酷な場所だ。

 それでもあの時、自分がヴィトンの財布を買うことができていたら、もう少し楽に青春時代を送れていたのではないかと時々考えてしまう。

 図書館で会った女性が「KATE」を開いているのを見て、最初は「仲間だ」と嬉しくなったのに、ヴィトンのバッグを見てから急に、自分が手放した雑誌が惜しくなった。ヴィトンからは強烈な憧れと苦味の感情がないまぜになって漂ってきた。もっと隅から隅までよく読めばよかった。最後の方の「夏の麺料理三十番付!」の特集はいつもと同じだから、と読み飛ばしてしまった。

 しかし、一度手放した「KATE」はもうしっかり彼女の手に握られてしまって返ってこない。

「ヴィトンのバッグを持てるなら、雑誌くらい買えばいいのに」

 気がついたら小声でつぶやいていた。

 みづほは諦めて、ベビーカーを押しながら雑誌コーナーから小説コーナーに向かった。ベビーカーの中の息子、圭太はよく寝てくれる。今、十ヶ月だが、はいはいができるようになった一ヶ月ほど前から急に寝付きがよくなり、聞き分けもよくなった気がする。

 小説は最近、ミステリーしか読まない。宮部みゆきの時代ミステリー小説があったから借りることにした。みづほは自分でもよく本を読む方だと思う。今は子供が小さいからまとまった読書時間を取ることはできないが、宮部みゆきの小説は切れ切れでも内容が頭に入ってくるから好きなのだ。

 それから、「家庭・家計」のコーナーも見る。そこで、善財夏実先生の『婚活女子はピンクの財布を持て』を見つけた。婚活女子というところは既婚のみづほには合わないが、善財先生の本はすべて読むようにしているから、すぐに手に取った。

 二冊の本を借りて図書館を出る時、出入口付近にある雑誌コーナーに目が行った。さっきの彼女が「KATE」を熱心に読んでいた。その傍らのヴィトンのバッグはまだ発売されて間もない新作だと気づき、みづほの息が上がった。

 図書館からスーパーにまわり、鶏胸肉百グラム三十八円の値札を見るころに、やっと動悸が穏やかになってきた。

 普段は四十九円の鶏胸肉、週に一度だけ三十九円になるのが、今日はなぜか三十八円だ。ここ最近で三十八円はなかった。二枚入っているものをカゴに入れた。それから、一袋十九円のもやし、一パック百三十三円の卵などを買う。

 あの人だって、少しずつ貯めたお金でやっとヴィトンを買ったのかもしれないしな、と奥に手を伸ばして少しでも消費期限が遅いもやしを探しながら考える。

 新作を買ったのだって、できるだけ長く使うためかもしれない。店舗でなく、質屋やメルカリで安く買ったものかもしれない。しかし、こうしていつまでも考えてしまうのも、みづほがルイ・ヴィトンを気にしている証だった。

 ヴィトンに対する負と正が入り交じった感情が一気に正に傾いたのは、派遣の会社員になってからだ。仕事を一から教えてくれた、やっぱり派遣社員の女性の先輩が使い込んだヴィトンの長財布を持っていた。

「素敵ですね」と褒めると「母からのお下がりなの」と教えてくれた。

「古いけど、ヴィトンは流行があんまり関係ないから」と照れたように笑った顔が素敵だった。私も使い込んだヴィトンを子供に手渡したいな、と思った時には財布にもう恋をしていた。

 ヴィトンの財布は修理しながら何十年も使えるらしいし、古くなっても売ることができる。無駄遣いを絶対許さない雑誌「KATE」でさえ、「良いものを買って長く使う」ことの象徴としてヴィトンだけは勧めているくらいだ。善財先生も、著作の中でブランドものの長財布を持つことを奨励し、中でもヴィトンは「値段と品質が釣り合い、運気もいい」「日本で一番始末がいいと言われている名古屋人もヴィトンには財布の紐を緩める」と書いていた。みづほが今使っているのは、OLの時に買った黒いエナメルの二つ折り財布だ。始めての給料が入った時に、なんとなくデパートの小物売場で買った。悪くはないがこれといった特長もない。

「KATE」には、毎月必ず、主婦が登場して一ヶ月の家計簿を公開するコーナーがある。皆、食費を切り詰め、無駄を省いて、二十万円台、三十万円台の給料の中から五万、八万と貯金している。このコーナーに載ることは「KATE」愛読者の憧れであり、彼女たちはスター主婦だった。

 記事は大抵、昔はダメダメ主婦で貯金ゼロだったとか、独身時代、給料を湯水のように使っていたというところから始まり、結婚、出産、または夫のリストラ、転職などの経験を通して、節約と貯蓄に目覚める様子が描かれている。

 彼女たちがお金を貯める理由で、「マイホーム購入」「子供の学費」と並んで多いのが「海外旅行」と「ブランド財布購入」だった。

 みづほもヴィトンの財布を手に入れたら、何十年も使うつもりだ。これから圭太が大学を卒業するまでの二十二年は続く節約生活も、ヴィトンの財布を眺めながらだったら頑張れると思う。洋服や靴はGUや古着でも、バッグからヴィトンの財布を出せば、そうみすぼらしくは見えないはずだ。

 海外旅行は、専門学校時代に女友達と韓国のソウルに行ったことがある。冬の韓国はやたらと寒く、街はごちゃごちゃしていた。食べ物はどれもおいしかったけど、ガイドブックどおりに格安コスメを買って、マッサージを受けただけで帰ってきた。特に大きな思い出はない。

 あの時、ヴィトンのものを何か一つでも買ってくれば良かった、といまだに後悔が残る。長財布を買えるほど貯金はなかったが、キーケースでも買っていれば今頃少しは気持ちが違ったはずだ。

 新婚旅行は沖縄だった。本当はハワイに行きたかったけれど、夫の「パスポートとかめんどい」「英語話せない」「高い」という声に押し切られて沖縄にしてしまった。とはいえ、せっかくだからとそこそこ高級なリゾートホテルに五日間も滞在したから、今思えば、結果的にはハワイとそんなに費用が変わらなかったかもしれない。

 どちらも、もっと主体的に旅行を楽しめば良かった。次は絶対に後悔しない旅にするつもりだ。

 そのため、みづほは二年近く、ずっと計画を練っていた。

 帰宅したみづほは、息子と一緒に昨夜の残り物で昼ご飯をすませ、お昼寝させて、夕食の下ごしらえをした。

 買ってきた鶏胸肉は繊維を断ち切るようにして縦に七、八ミリの厚さに切って、スーパーでもらってきたポリ袋に入れた。肉一枚に醤油小さじ二杯を揉み込み、マヨネーズを大さじ一入れてさらによく揉んだ。

 夕方、夫の雄太からLINEで「帰宅します」という連絡がくると、漬け込んだ胸肉に片栗粉大さじ二を加えてまたよく揉んだ。あとはそのまま揚げるだけで柔らかく癖のない「鶏胸肉の唐揚げ」ができる。

 買ってきたもやしと卵もごま油で炒めた。最後に鶏がらスープの素と片栗粉、小さじ一ずつを水に溶かしたものを加える。うまみがこってりともやしにからんだ、中華風の炒め物ができ上がった。

 この唐揚げともやし炒めはみづほ自慢の献立だ。もやし十九円、卵二つで二十六円、胸肉一枚が百二十円弱だから、二百円以下でボリュームも味も満点の夕食ができる。これにご飯とわかめスープをそえた。

 唐揚げは時に甘酢で和えたり、カレー粉を加えたりすると、味が変わって飽きない。どれも夫の大好物である。

 夕食ができ上がると、離乳食を圭太に食べさせた。昨日、カレーを作る時に煮た、ジャガイモや人参をつぶしたものだ。他に、手作りのプリンもデザートに用意した。

 しかし、口に入れたジャガイモも人参も、圭太はべーっと舌を使って出してしまう。そのままベビーチェアのテーブルに落ちた野菜を指でいじっている。

 みづほは大きなため息をついた。

 圭太が小食なことが、唯一の、でも、大きな悩みだった。

 とにかく、食べない。食べ物を落としたり、それで絵を描いたり、食べ物で遊ぶ。みづほが怒ると、かまってもらえると思うのか嬉しそうにきゃっきゃっと笑い、もっと怒ると泣き出して、それ以上何も食べなくなる。一度、あんパンを食べさせたらよく食べたので、次の日も買ったら一口も食べなかった。そんなふうに、初めだけよく食べてぬか喜びさせることも、よくあった。

 なだめたりすかしたりして、あれやこれやとやってみるのだが、いまのところ、これといって有効な対策はなかった。

「体重が増えていれば大丈夫ですよ」と小児科の先生にも言われるし、「そのうち食べるようになるわよ」と母にも言われる。

「親が気にしすぎるのもよくないみたいよ」

 母親教室で出会ったママ友の「彩花ちゃんママ」もそう言う。それは、彩花ちゃんがなんでも食べる健康優良児で、お相撲さんみたいに太っているから言えるのだ。

 まあ、圭太みたいにほっそりしているのと、白鵬をミニチュアにしたみたいな彩花ちゃんとどっちがいいのか、と聞かれたらちょっと返事に窮する。

 みづほの心づくしの手作りプリンも圭太は二口ほどしか食べなくて、三口目からはべーっと吐き出した。

 圭太がベビーチェアのまわりにこぼした食べ物を、床を這いずるように拭いていると、ドアが開く音がして夫の雄太が帰ってきたことがわかった。

「お帰り!」

 ただいま、と答えてくれたのかどうか、下を向いていたからよく聞こえなかった。でも、あまり気にしない。雄太はそういう人だ。ただ、「暑い、暑い」とつぶやいているのだけが聞こえてきた。

 ベビーチェアの下から立ち上がって、顔を上げた時に雄太は居間にいなかった。寝室で着替えているのだろう。

「ねえ、そんなに暑いならシャワーで先に汗を流したら」

 寝室の入口まで行って呼びかける。思った通り、彼はシャツ姿になり、鞄を床に置きながらネクタイをほどいていた。やはり返事はない。

 新築の1LDKの賃貸マンションは、西新宿から電車で約三十分の練馬区の駅から、歩いて八分と言われて借りた。実際には十分以上かかる。みづほはもう少し埼玉よりなら家賃もずっと安いのに、と思ったけれど、「通勤時間が長くなるのが嫌だ」と夫に言われて、折れた。

 母が住んでいる川越まで行けばずっと安いはずだ。けれど、実家に近いところに住みたいのか、と夫の両親に嫌味を言われるのが怖くて言い出せなかった。

 駅から少し坂になっているから、蒸し暑い日はつらい。

「ねえ、先にお風呂に入ったら?」

 雄太はまだ鞄から何かを取り出そうとしている。

「ねえ?!」

 きつめの声を出して、やっと「ん」と振り返った。

「先にお風呂に入ったら、って言ってるの」

「……いい」

 雄太は無表情で答えた。

「さっきから何度も言ってるのに……鞄になんかあったの?」

「いや、パソコン出そうと思って」

 そんなに暑いなら、先にシャツを脱いで汗を拭くか、部屋着に着替えるかしたらいいのに。夫の行動に軽いいらだちを覚える。

「シャツ脱いでくれたら、洗濯機に入れるけど」

「いい、まだ」

 鞄からうまくパソコンがでてこないらしく「ああっ、暑いなっ」と、怒鳴っていた。

 寝室を離れながら、小さくため息をつく。

 夫の雄太にはこういうところがある。何か一つのことに夢中になってしまうと周りが見えなくなり、声も聞こえなくなること。正常な判断ができなくなること。

 だからといって彼が嫌いになったりするわけじゃないし、男性にはありがちな不器用さだなとも思うのだが、いちいち細かいことを注意しなければいけない時は、「私、お母さんみたい」と思って情けなくなる。

 一度、夫の実家で「雄太さんて、夢中になると周りが見えなくなりますよね」「物事の順番を正しくわからない時がありますよね」とさりげなく聞いてみたことがあった。

「そうなの、子供の頃からなのよお」

 困っちゃうわね、と言いながら、義母は嬉しそうだった。そして、なぜか、雄太が小学生の頃、どれだけ成績が良かったか、特に算数はよくできて、先生を困惑させるような質問までした、というようなことを自慢げに話された。

 あんたがちゃんと育てないから、生活音痴な息子になるんだよ、と心の中で毒づいたけれど、確かに彼にそういう、強いこだわり、オタク的要素があるからこそ、今のシステムエンジニアという仕事に向いているのかもしれない。

 しばらくして、雄太はやっとTシャツに着替えて寝室から出てきて、食卓についた。彼は服装にこだわらない。高校時代に買ったという、プリントの消えかかったガンダムのTシャツを着ている。

「今日、ゆうちゃんが好きな唐揚げだよ」

「うん」

 あまり反応はないが、これもまた気にしないことにしていた。おかずを並べてやると、もくもくと食べ始めた。

「おいしい?」と尋ねて、やっと思い出したように「ああ」と素直にうなずいた。

 多少は不満もあるが、彼にはいいところもたくさんある、と唐揚げを頬張っている口元を見ながら思う。

 家庭のことについてはみづほの好きなようにやらせてくれる。喧嘩すれば大きな声を上げることはあっても、暴力なんかは振るわない。ちゃんとお給料を稼いでくれて、特別ケチということもない。月給は手取り三十万前後で、二十代後半の男性としたらまあ平均的ではないだろうか。ボーナスも入れれば、年収四百五十万以上はなる。

 今の時代、このくらいのところで十分満足だと思うべきではないだろうか。

 みづほは埼玉県の川越市で生まれた。今でも母はそこに住んでいる。両親はみづほが高校生の頃、離婚した。

 父は細かい男で、時々怒鳴ることもあった。母がおおざっぱな性格だったから、うまがあわなかったのだろう。離婚すると言われた時も正直、あまり驚かなかった。みづほも高校生になっていたし、二人がほとんど口を利いていないことも知っていた。

 父が養育費を払ってくれたので、ヴィトンの財布は買えなかったが専門学校には行けた。IT関係の専門学校を出た後、西新宿に本社がある、雄太と同じメーカーに派遣社員として入った。

 みづほは営業部の営業補助だった。舌先三寸で仕事をし、多少強引な行動もむしろよしとするような、偽悪的でマッチョな営業マンたちに馴染めないものを感じていた。ある時、営業マンたちの同期と飲み会をすることがあり、出会ったのが三歳年上のエンジニア、雄太だった。身体を鍛えるのが流行っていた営業部の男たちを見慣れている中で、ほっそりした雄太の体型と横顔は清潔感にあふれて見えた。みづほから声をかけたのがきっかけで二年間の交際の末、結婚した。

 結婚当初は二人で社宅に住んでいたけれど、息子の妊娠とともにそこを出て、このマンションに引っ越した。妊娠初期からつわりがひどく、人員削減一辺倒の部内にかばってくれる人もいなくて、結局、仕事はやめてしまった。仕事を教えてくれた先輩も、ステップアップのために転職をしたあとで、心の拠り所を失ったような気もしていた。

 雄太のお小遣いは本人の希望も受け入れて、毎月五万。家賃は管理費も含めて十万八千円、みづほは食費、日用品代、そして、お小遣いを含めて五万円を渡されていた。他に、水道光熱費、通信費、子供の学資保険、雄太の貯蓄型保険などを引くと、ほとんど残らない。

 雄太の小遣いも「KATE」に出ている家計などを見ると少し多い気がしているが、外食をしたり、レジャーに行ったりする時は彼が払ってくれることになっている。ただ、お給料日に、雄太は「僕の小遣い五万、それから、みづほちゃんも五万」と言いながら渡す。五万は食費や日用品代も含んだ金額で、節約しなかったらいくらも残らないのに彼は私のお小遣いのように考えているのではないか。毎月そう言われるたびに密かに不満だった。

 本当は、家賃ももう少し安くおさえたい。でも当時、新築だったマンションを夫が一目で気に入って、ほとんど独断で決めてしまって住み続けている。

 結婚前、気が合わない両親を見てきて、穏やかな家庭さえ築ければ収入は普通でいいと思っていた。今は仕事をやめたことを後悔している。あの時、無理をしても頑張って働き続けていれば生活にもっと余裕があったのではないか。圭太がもう少し大きくなれば、また派遣かパートで働くつもりだ。

 そんな不満も、この秋には多少解消しそうだった。

<第2回に続く>