夫のひと言に覚えた妙な胸騒ぎ、やがて判明した事実/財布は踊る③
更新日:2022/7/29
専業主婦の葉月みづほは、夫と息子の3人暮らし。ある夢のため、生活費を切り詰めながら月2万円を貯金し、ついに実現! …したはずだったが、なんと夫の借金が発覚し…。
大ヒット作『三千円の使いかた』の著者・原田ひ香氏が、「今よりすこし、お金がほしい」人々の切実な想いを描く長編小説!
※本稿は原田ひ香著の小説『財布は踊る 』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。
妙な胸騒ぎを感じるようになったのは、ハワイの記憶がまだ残る、十月の末のことだった。
発端は、雄太が預金通帳を開きながら「お、俺ってすごいなあ。クレジットカードをあれだけ使っても、やっぱり請求額三万なんだよな」と言ったことだった。
一瞬、首をひねった。そんなことあるわけがない。
ハワイでは思いっきり散財した。ウルフギャングでステーキを食べたし、なかむらのラーメンも食べたし、ハレクラニの海の見えるレストランで朝食も食べた。ヴィトンの財布を買った後、アラモアナで家族の買い物もした。圭太にはTシャツ二枚とアロハシャツを買ってやった。華やかなブルーに黄色のひまわり模様があしらわれたシャツで、よく似合った。まだ、自分で服を選ぶような歳ではないが、みづほと雄太が「かわいい、かわいい」と交互に褒めるとやはり嬉しいのか、圭太はきゃっきゃっと声を出して笑った。
雄太自身もTシャツと帽子を新調していたし、スニーカーも買った。ヴィトンの財布以外、それらは全部、彼のカードで支払った。
それだけではない。手持ちのドルがなくなった時は、クレジットカードでATMから現金を引き出していた。ホテルよりこの方がレートがいいらしいよ、と言って。
「大丈夫だよ。だって、みづほちゃんも貯金頑張ってくれたでしょ」
彼はずっと笑顔だった。それがハワイにいる間、どれだけ嬉しかったか。
カードの請求というのは少し遅れてくる、と一度は不安を打ち消した。来月にはきっと多額の請求が来るだろう、と。
再び違和感を感じたのは十二月に入ってからだ。来年の年賀状の注文をするために、家族写真を整理した。今年はやっぱり、ハワイ旅行の写真を大きく使おうと考えながら、ふと手を止めた。
「ねえ、ゆうちゃん?」
「ん?」
休日の夕食のあとだった。彼はスマホをいじっていた。
「そういえばさ、クレジットカードの請求書、来た?」
「クレカの? うん」
スマホゲームに夢中になっていて、ろくに聞こえていないようだ。こういう時は一度時間を置いて、彼がスマホを止めてから話さないとすごく機嫌が悪くなる。それを知りながら、どうしても、今聞きたかった。
彼が「ああ、あれ。来たよ、すっごい金額だった!」だとか、「もう、払うの大変だったよ!」とか言わないことが逆に不安だったのだ。
「ねえ、ゆうちゃん、ゆうちゃんてば。ちょっと一度、こっち見て。スマホ止めて。ちゃんと答えて!」
「んんん?」
案の定、彼は不機嫌になった。
「なんだよ」
「だから、カードの請求書来た? って聞いているの。先月の」
「先月って、十一月末の? 来たよ? 普通に払ったもん」
雄太はゲームを中止させられて、少しイラついているのが口調でわかる。
「普通にって……いくら?」
「普通に、いつもと同じだよ、三万くらい?」
「……おかしくない? だって、ハワイ旅行でいろいろ使ったじゃん」
「だって、カード会社から請求来たのをちゃんと払っているんだから、別に大丈夫だろ」
「いや、でも……一度、その請求書を見せてよ」
雄太は黙りこくった。
「ねえ、ねえって」
「知らないよ。だいたい、請求書なんてないよ。今は全部ネットだもん」
「じゃあ、そのネットの画面を見せて。先月と先々月のだけでいいから」
雄太は急に立ち上がった。
「俺がちゃんとやってるんだから、大丈夫だよ!」
そう大声で怒鳴ると、彼は寝室に入り、ばたん、と大きな音を立ててドアを閉めた。驚いた圭太がおびえたように泣き出した。
みづほはハワイでの出費を思いつく限り書き出し、夫が払ってくれたもの、特にカードを使ったものにマーカーで印を付けた。
書き出している途中で何度も投げ出したくなった。そのリストを作る途中で、頭の中で、何かがおかしい、何かがおかしい、とちかちかと警告灯が瞬いていたからだ。
終わった時はっきりしたのは、レートによって変わるので正確な金額はわからないまでも、少なくとも十五万、多ければ二十万以上、雄太はハワイで使っているということだった。他に彼自身が日本で使っている分もあるだろう。夫婦二人の携帯代は家族割になるので彼が払ってくれている。一人八千円ほどで二人で一万五千円以下ということはないと思う。
おかしい。
翌朝、みづほは朝食の席でもう一度、尋ねてみた。
彼はトーストとヨーグルト、目玉焼きを食べていた。そのヨーグルトはみづほがヨーグルトメーカーで作っているものだ。一リットル九十八円の低脂肪乳を使って、少しでも倹約して、少しでも雄太に健康になってほしいと願っているから。ネットのポイントサイトのアンケートに答えて、毎日一ポイント、二ポイントと少しずつ貯めた二千ポイントでヨーグルトメーカーを手に入れた。本当は自分のものを手に入れてもよかったのに、家族のために使った。
それを呑気に食べている夫を見ていたら、自分の不安を解消してくれてもいいのではないか、とつい思ってしまった。
「あのさあ、前もちょっと聞いたけど、ハワイの支払いのことだけど……」
雄太は何も言わず、ヨーグルトのスプーンを口に入れたまま、上目遣いにみづほを見た。
「やっぱり、ちょっと心配だから、確認してくれる? 支払いどうなってるの? ゆうちゃんにいろいろ払ってもらったよね? 私、ざっと計算してみたけど、あれ、二十万近くになってない? もしも、支払いが大変だったら、私も出すから……」
そこまで譲歩して柔らかい口調で言っても、彼は黙ってヨーグルトを食べている。
「確認してくれるだけでいいんだ。ハワイで使ったお金がどのくらいかかったか……」
「だから、ちゃんと払ってるって言ってるだろ」
そう言いながらスプーンをテーブルに置いた。しかし手元が狂ってそれは床に落ちてしまった。カキーン、という乾いた音がした。
「俺がちゃんと払ってるんだから、大丈夫なんだよ」
雄太が拾わないので、みづほは長い人生の中で、いったい、何度、自分は床にひざまずくのだろうと思いながら、這いつくばってテーブルの下のスプーンを拾った。
前はここで尋ねるのを止めてしまった。でも、今朝はどうしても止められなかった。
「毎月三万ておかしくない? 携帯代だけでもその半分くらいはいってるはずでしょ?」
スプーンをキッチンで丁寧に洗い、彼に渡しながら尋ねた。
「だから、ちゃんと払ってるって」
「九月の半ばに旅行に行って、十月末の支払いも、十一月末の支払いも三万だなんて……計算が合わなくない?」
雄太は乱暴に立ち上がった。
「もう行かないと間に合わないから」
「どうしてそんな風になっちゃうの? なんで怒鳴るの? ただ、聞いただけじゃない。不安だから聞いているの。どうしたのかなって。あのハワイは私が貯めたお金で……」
「私が貯めた、私が貯めたって偉そうに言うなよ。俺が働いた俺の金だろ。でかい顔すんじゃねえよ! 全部、俺の金だろうが。なんで、そんなことを言われなくちゃならないんだよ」
俺の金、という言葉が胸に刺さって、文字通り、鋭い痛みを感じる。みづほが苦労して一円一円と貯めてきた労力はなんでもないんだろうか。
「ただ、確かめたいだけなの」
みづほは小さな声でつぶやいた。
雄太はそれに応えずに、寝室から上着と通勤鞄を取って、乱暴に玄関を閉めて出て行った。
結局、何もわからないまま、年を越してしまった。
あれから数日はお互いにむっとしたまま過ごし、雄太も年末の忙しさや忘年会などもあって、夕飯を一緒に食べることも少なく話し合いもできなかった。
何より、あそこまで機嫌が悪くなられると、また怒られるのが怖い。
前から少し気づいていたのだが、雄太はお金にルーズというか、ザル勘定なところがあって、それを指摘されるのをすごく嫌がる。不得意なことを自覚しているのかもしれない。
ボーナスが支給されると、雄太はみづほに三万円をくれた。銀行の封筒に入れたものを、ぶっきらぼうに「はい」と渡した。
「何、これ?」
「クリスマスに、なんか好きなもの買ったら」
彼なりの謝り方なのかもしれなかった。けれど、みづほにはプレゼントの三万も、不安を思い出す材料になっただけだった。
それでも表面上は変わりなく、家族として普段通りに生活した。
正月には彼の実家に子供をつれて帰り、二泊した。義母が「この子はちょっとぶっきらぼうだけど、優しい子なのよ」「子供の頃からとにかく頭が良くて、計算がよくできた」といつもの自慢をし、みづほはそれを上の空で聞いた。
そんなに計算ができる息子が、ハワイで使ったお金のこともわからないのだろうか。みづほの実家には雄太が「疲れたから行きたくない」と言うので、圭太だけを連れて四日に帰り、夕食を共にして泊まらずに自宅に戻った。
「雄太さん、一人にしておけないものねえ」
悪気なく笑う母に、申し訳ないと思いながら、電車に乗り込んだ。
実は、年末にみづほは思いあまって、カード会社に電話していた。彼の名前とカード番号でなんとか支払い実績や請求額がわからないかと考えたのだ。彼のカード番号は、夜中密かに財布からカードを抜いて調べた。
「……申し訳ないですが、ご本人様じゃないとお答えできかねます」
電話口の女性がそっけなく言った。
「やっぱりそうですか」
「カード番号とお名前だけでは」
「……実は、夫がカードを使っている形跡があるのに毎月三万の支払いしかしてないと言っていて、ハワイに行っていろいろ使っているはずなのに、なんだか、おかしいなと思って……」
気がついたら顔も見えない相手に、何かが零れるようにすべてを話してしまっていた。相談できるのは彼女しかいなかった。
「どういうことになっているのかと思って」
「……それはリボ払いになっているのかもしれませんね」
相手はなぜか声を潜めて言った。
「え」
リボ払い。聞いたことがある言葉だったがどういう意味なのかよくわからない。
「旦那様とご一緒に当社にいらっしゃってくだされば、『リボ取引明細照会』ができます。これまでどのくらいお使いになっているのか、どのくらいお支払いが残っているのかわかります。一括払いやもう少し金利の低い分割払いに変えることもできますので、ぜひ、ご相談ください」
そう言って相手はそそくさと電話を切ってしまった。
仕方なく、みづほはネットで「リボ払い」を検索してみた。
驚いたのは「リボ払いとは?」で検索しているのに、その用語の意味の説明より前に「広告」と銘打って、「リボ払いで苦労してない? 毎月の支払い額を簡単に減らせます」という怪しげなページがたくさん出てきたことだ。漫画で作られた、「リボの返済額で苦労していた私が一分で楽になった!」という美容広告のようなものまであった。
それをかき分けてやっと探し出した、多少まともそうなページに書かれていたのは、「毎月の支払い額を一定の金額に固定して、金利とともに返済していく仕組みです」「手数料として使った額の十五%程度がかかる場合があります」という衝撃的な言葉だった。中には「リボ払いというのは結局、借金です」と書いている人もいた。
まだ、全容は見えてこなかったが、もしかしたら雄太がカード会社から借金をしているのかもしれない、ということだけはわかった。
しかし、どうやって彼にこのことを伝え、どうやって話し合えばいいのかわからない。
前は朝食中というタイミングが悪かったのかもしれない。起きたばかりで、会社に行く前の慌ただしい時にする話じゃなかった。
次はもう少し、時間帯や話し方を考えよう、と思った。
一月二十五日が新年最初のお給料日だった。雄太はまた、五万円をみづほに渡してくれた。
「はい、これ」
「ありがとう。お疲れ様でした」
今夜は餃子にした。キャベツをたくさん刻んで塩揉みし、ぎゅうっと力を入れて水分を絞る。それに塩を加えてもっちりするまでよく練った豚挽肉を加え、特売で買った、一袋六十八円の餃子の皮にぎっしり詰めた。
お肉は百グラムしか使っていないのに、満足感の高い、みづほの得意料理だった。その分、手間はかかる。
餃子を焼く時に加える水に片栗粉を足して、羽根つき餃子にすることも忘れなかった。もやしをナムルにして、第三のビールもそえ、切り詰めているけれど、お給料日にふさわしい華やかな献立にした。
「なんか、お店に来たみたいだなー。みづほの餃子おいしいから、店に行く必要ないよね」
そこまで機嫌良くなってくれたところで心苦しかったが、みづほはもう一日も待てないと思っていた。
夕食を半分ほど食べたところで、みづほは箸を置いた。
「……ゆうちゃん、本当にごめん」
「え、何?」
「今日はお給料日で、せっかく、機嫌良くしているのに、こんなこと言いたくないんだけど、だけど、どうしても言わせて。私、どうしても聞きたいんだ。あの……カードの支払いどうなっているの? 今月も前と同じで三万だったんでしょ? それだと、どうしても計算が合わないと思うんだ。もしかしたら、リボ払いっていうのになっているんじゃないかな。本当に、本当にこんなこと聞いてごめんなさい。だけど、一度だけ、確かめさせて。それをしてくれたら、私、もう二度と言わないから。絶対、あなたを責めないから、お願い」
雄太の顔を見ずに、自分が精魂込めて作った餃子を見ながら、一気に言った。言っている途中から涙があふれてきた。
「ごめんね。だけど、もしも、借金があるなら教えて欲しいの。これは私やゆうちゃんのためだけじゃない。子供の……圭太のためなの。この子には大学に行ってもらいたいし、でも、今のままじゃ、私たち、学資保険以外に貯金もできてないよね。これを機会にお金のこともちゃんとしたい。見直したいんだ」
雄太が深々とため息をついた。
「……それを言われたら、ずるいわ」
みづほはやっと顔を上げた。息子の名前に効果があったようだ。
「私も頑張るから。圭太を保育園に預けて働いてもいいし」
「でも……カードの利用履歴なんて、よくわからないよ。もう、何年も見てないし、明細書も来てない」
「前にネットで調べられるって言ったじゃん」
しぶしぶ、彼はスマホを出した。
それからもまた大変だった。紙の明細書からネットに変えた時に一度ログインしただけで、その後、一度も見ていなかったらしく「どこを調べればいいのかわからない」「パスワードがわからない」と文句を言ったあげく、みづほがスマホ画面をのぞこうとすると嫌がって、手で払いのけた。
しかし、その間に、彼がクレジットカードを持ち、リボ払いにした経緯を聞き出すことができた。
学生時代にiPhoneの機種代金が無料になる契約を携帯会社とした時、新しいクレジットカードを作って支払いをすることが条件だったらしい。
「リボ払いにするって言われなかったの?」
「さあ。どうだったか……携帯の支払いが月八千円くらいで、支払いが三万までなら手数料もかからないから、普通のカードと同じですって言われたような気がする。とにかく、これなら大丈夫です、って」
「ぜんぜん、大丈夫じゃないじゃん」
「でも、そんなに悪いことかな。定額払いならサブスクみたいなもんでしょ。永久に毎月三万払えばいいじゃないか」
雄太は何度も理屈をこねて、調べる手を止めた。
みづほもそう言われると、急に自信がなくなったし、本当は彼の説明を鵜呑みにした方が自分だってずっと楽だった。それでも、「とにかく、今、払わなきゃいけないお金がどれだけ残っているのかわかってから、考えようよ」と、なだめすかした。
やっとカード会社のサイトを見つけ、いくつかのパスワードを試した後、彼は手を止めて、スマホ画面を見つめた。彼がじっとしているので、みづほも横からのぞき込むことができた。
「二百……二十八万……?」
みづほが雄太の顔を思わず見ると、彼も、目を大きく見開いていた。