財布を買ったのは、4980円の「お財布セミナー」の受講者で…/財布は踊る⑤

文芸・カルチャー

更新日:2022/8/6

専業主婦の葉月みづほは、夫と息子の3人暮らし。ある夢のため、生活費を切り詰めながら月2万円を貯金し、ついに実現! …したはずだったが、なんと夫の借金が発覚し…。

大ヒット作『三千円の使いかた』の著者・原田ひ香氏が、「今よりすこし、お金がほしい」人々の切実な想いを描く長編小説!

※本稿は原田ひ香著の小説『財布は踊る 』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

財布は踊る
財布は踊る』(原田ひ香/新潮社)

第二話 財布は騙る

 新品のヴィトンの財布を六万八千円でゲットして、水野文夫は「イエッス!」と机の下でガッツポーズをした。

 抑えた声のはずだったが、隣の若い会社員風の女がちらりとこちらを見て小さく舌打ちした。淡いピンクのブラウス、薄茶色の髪は肩のあたりできれいにカールしている。

 うぜえ。お前みたいな見た目も性格もブスな、婚活パーティの代わりにお財布セミナーに来ているような女とは絶対に結婚しないから覚えとけよ、という気持ちを込めてにらみかえした。

 しかし、このセミナーには四千九百八十円も払っているんだから、確かにちゃんと聞かないともったいない。文夫は目の前の講師、ハイパースペシャルお財布アドバイザーの善財夏実に目を戻した。

「財布というのは、お金のすべての源です。お財布が貧しい人に豊かな未来は訪れません。フレンチレストランでお会計の時にマジックテープのお財布を広げる男と結婚しますか? しないでしょ?」

 善財夏実が最近、お財布と婚活をテーマにした『婚活女子はピンクの財布を持て』という本を出してから、急にセミナー受講者にいき遅れOLみたいな女が増えた。あの本はなかなか売れているらしい。セミナーも婚活を意識した話が多い。

「まあ、私のセミナーの講習生で、マジックテープ財布を使っている人はいないでしょうが……」

 大きな会議室いっぱいの受講者たちはどっと笑った。

 彼女がツイッターに「マジックテープの財布を使っている男は一生年収三百万以下だし、結婚もできない」と書き込んで大炎上し、そのおかげで「お財布アドバイザー」としてデビューしたのは周知の事実だ。それまではぱっとしない風水師でネットの占い記事を主に書いているライターだったのが、そのツイート一つで今の地位をつかんだのだ。

 インターネット黎明期に個人の意見を書き込める掲示板を立ち上げ、それを売却したことで大富豪となっている有名起業家が、「自分はマジックテープ財布を使って年商二十億稼いでますけど? 妻はみるくくるみですけど?」と善財のツイートを引用リツイートしたことも大きかった。

 みるくくるみは売れないグラドルから地下アイドルになって、たまたまイベントで知り合った起業家をゲット。その後グラドルたちのアイドルグループを立ち上げて、夫からの莫大な資金を元に秋葉原に大きな劇場まで作ったやり手の元タレント実業家だ。美人で商才もある妻がいて、今もコンサルとして稼いでいる彼が使っているなら、マジックテープの財布が云々という話は嘘だということになる。けれど、善財夏実はまったく動じず、ちゃっかり彼のツイートをリツイートして、さらに拡散した。

 彼らを見ていると、自分もいつかはSNSでバズったり、起業したりして、一攫千金を狙えるのではないかと思う。そのきっかけはすぐ近くにありそうな気もするし、とんでもなく遠いような気もする。でも、宝くじに当たるより確率は高いのではないか。

 急に、自分のスマホがりーんと鳴って、血の気が引くほど驚いた。セミナーの間、電話は集中モードに設定していたのだけれど、今は善財の言葉をメモするために開いていたのだ。慌てて音を消したが、会議室中の注目を浴びてしまった。

 しかし、善財はこういうことには慣れているのか、文夫の方をちらっと見ただけで何事もなかったかのように話を続けた。彼女がこちらを見てくれているのかわからなくても、文夫は何度も頭を下げた。

 善財夏実は常に財布をきれいな状態にしておくこと、財布のどこに何が入っているのかいつでも言えるようにしておくこと、何より今いくら入っているかすぐに言えることが大事だということなどを話した。

「財布の中身はあなたの頭の中身です。財布が整頓されているということは、あなたの頭もいつもクレバーで澄み切っているということなのです」

 文夫は今日、ヴィトンの財布を買った自分が誇らしくなった。これから、先生の言う通り、大切に使おう。自分の頭はもうヴィトンと同じ、一流ブランドということなのだ。

 今日の善財は財布だけでなく、成功に導くSNSの使い方にも少し触れた。必ず毎日更新すること、何か自分の強みを見つけること、ライフハックを箇条書きにしたツイートを一日に一回はすること、炎上を恐れないこと。

 善財は最後に、「私がなぜ、こんな成功の秘訣をすべて洗いざらい、あなたたちにさらけ出すと思いますか。手の内を教えてしまえば、もしかしたら、あなたたちが自分のライバル、脅威になるかもしれないのに」と言って、教室の隅から隅までずうっと見渡した。受講者たちが、いったいどういうことだろう? と思ったところで、すかさず善財は言った。

「それは、皆さんがきっとやらないと知っているからです。私がこんな話をしても、ここにいる百人の中で家に帰ってすぐに財布の整理をしたり、すぐにSNSの更新をする人は十人いるかいないかでしょう。その中で、一年以上持続できるのは一人いるかどうか。学んだ通りに行動できる人はほとんどいません。そうわかっているから、私はなんでもあなたたちに教えるんです」

 善財はにやりと笑った。不敵な笑みだった。

<続きは本書でお楽しみください>