ハーバード大留学帰り、同期で年下のエリート上司は、問題児!?/【月9ドラマ原作】競争の番人②

文芸・カルチャー

更新日:2022/8/2

フジテレビ月9ドラマでも話題! 『元彼の遺言状』著者・新川帆立さんによる「公取委」ミステリー『競争の番人』(講談社)。

市場の独り占めを取り締まる公正取引委員会の審査官・白熊楓は、東大首席・ハーバード大留学帰りのエリート審査官・小勝負勉と同じチームで働くことに。反発しあいながらもウェディング業界の価格カルテル調査に乗り出すが…?

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※本稿は新川帆立著の小説『競争の番人』から一部抜粋・編集しました。

競争の番人
競争の番人』(新川帆立/講談社)

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 翌日、午前九時にはオフィスに着いた。

 職場は霞ケ関駅を出てすぐ、中央合同庁舎の十階にある。

 仕切りのない大部屋で、一番奥に審査長の席、その前に机を寄せて作った島が三つ並んでいる。

 島の先頭には、事件処理の責任者であるキャップが座る。キャップは事件ごとに任命される。役所的に言えば、課長補佐級の人々だ。複数の事件のキャップを務めることもあるし、一つの事件でキャップを担当しても別の事件では他のキャップの下で主査として働くこともある。

 定時は九時三十分だったが、白熊は早めに来ていた。

 遠山を筆頭としていた島から、別の島へと私物を移し、引越しをする必要があった。新しい島は中央の島を挟んで反対側だ。同じフロア内とはいえ、遠いところに飛ばされた気分だった。

 新しい島の先頭には、風見という四十代半ばの男がいて、その正面に桃園がいる。桃園の右隣が白熊の席だった。お目付け役が横について、しっかり鍛え直す、ということらしい。

 部屋の隅、共用のキャビネットの向こうには、三人掛けのソファがある。かなり昔の職員が仮眠用に残していったもので、ボロボロに使い込まれている。ソファの上には大きなブランケットが広げてかけられていた。脇には蓋の閉じた段ボール箱が二つ積んであった。デスク周りに視線を戻すと、各自のゴミ箱からゴミが溢れそうになっている。

 共用のキャビネットから大容量のゴミ袋を取り出した。周辺の座席を回って、ゴミ箱の中を空にしていく。それからキャビネットの中の備品をチェックして不足分を手早く注文した。庶務担当の職員はいない。細かい仕事は全て若手職員が行っている。

「あっ、白熊ちゃーん。いらっしゃい」

 定時を五分すぎたころに、桃園が登庁してきた。片手にはドトールのカップを持っている。駅の改札前の店で購入したものだろう。

 白熊はさっと席を立ち、「おはようございます」と一礼してから着席した。

「今日からお隣さんだねえ。よろしくねえ」

 桃園は小首をかしげた。ロングヘアの間でフープピアスがきらりと揺れた。マンゴーみたいな良い匂いがする。煙草臭い遠山とは大違いだ。

「ねえ、そういえば、今日から小勝負君が来るんだって。今ごろは人事課で手続きをしてるんじゃないかな」

 桃園は椅子を回転させ、白熊の席に身を乗り出した。両手で頰杖をついて、目を輝かせている。

「小勝負君、この島に配属だよ。白熊ちゃんの正面が小勝負君の席」

 桃園の指さす先を白熊は見つめた。

「えっ、目の前の席に? 小勝負君が?」

「すっごいエリートなんでしょ? 私、狙っちゃおうかなあ」

 軽い感じで桃園は笑う。

「小勝負君って、何歳だっけ?」

「学部卒で五年目だから、二十七歳ですかね」

「若いね。でも、ギリいけるかも」桃園はニッと笑った。

 白熊は少し遅め、二十四歳で入局しているから、小勝負より二つ年上だ。

 小勝負は総合職採用、いわゆるキャリア組である。一般職採用、ノンキャリの白熊よりも出世のスピードが速い。

 同じ年次に入局したのに、小勝負は係長、白熊は係員だ。意見が分かれたときは、小勝負の判断が優先されるだろう。

 同期で、年下の上司。

 しかも優秀だというから、どう接していいか分からない。

「私たち審査の仕事は現場が命です。頭でっかちな人が来ても、困るんじゃないですか」

 反発心をにじませながら言った。

 小勝負はこれまで政策策定の部署にいて、審査の現場の経験がない。入局してからずっと審査を担当している白熊には、白熊なりの意地があった。現場を知らない年下の上司に、あれこれと指示されるのは嫌だった。

「こら、何てこと言うんだ」

 斜め前の風見が割って入った。

 神経質そうに銀縁眼鏡を押さえて、コホンと一つ咳をした。

「弱小官庁のうちに優秀な人が来てくれたんだから、それで十分だろう。文句を言うんじゃ、ありません」

「弱小官庁だって」桃園がくすくす笑った。

「いいや、うちは弱小官庁だ。それは間違いない。財務省に虐められ、経産省に馬鹿にされ、検察からは疎まれている。国民はどうだ。俺たちのこと、全然知らないだろ。こんなに頑張っているのに。なあそうだろ。利権もねえ。人材もねえ。予算もそれほどもらってねえ。一体どうしろっていうんだ。なあ」

 風見の声がどんどん大きくなる。

「こんなすごい経歴の人、なかなか採用できないぞ。ざまあみろ財務省! 見てろよ経産省! いいか、小勝負君を歓迎するんだぞ。くれぐれも粗相のないように」

 白熊は黙ってうなずいた。小勝負を褒めたたえる風見の態度は面白くないが、優秀な職員が増えることは喜ばしい。

 風見の言うとおり、公取委は他省庁に比べて人気も権力もない。

 競争が関係する全業界を担当するから、特定の業界団体や政治家との利権がないのも特徴の一つだ。気楽な反面、後ろ盾がないから他省庁との小競り合いでは常に煮え湯を飲まされる。

 電話が鳴り、ワンコールで白熊が出た。コピー用紙が届いたという連絡だった。取りに行くために立ち上がって、ついでにゴミを捨ててこようとゴミ袋を抱える。

 次の瞬間、ひぇっ、と裏返った声が出た。

 共用キャビネットの向こうに人が立っている。

 背の高い男だ。

 細身だが引き締まった身体つきで、鍛えているのが分かる。身体にぴったりフィットしたダークスーツを着ていた。

 シャツの襟が少しだけ折れ曲がり、髪には寝癖がついている。

「噂話ばかりして、皆さんそんなに暇ですか」

 男は淡々とした口調で言った。

 白熊はあ然として男の顔を見つめた。

 高く細い鼻梁と尖ったあごが特徴的で、都会の近代建築物みたいな顔だ。端整だが表情らしい表情はなく、ロボットのような均整美である。

「僕について好き勝手言うの、やめてくれませんか。経歴や肩書だけでアレコレ言う人、嫌いです」

 男は吐き捨てるように言った。眉を少しだけひそめている。

「だから島国は嫌いなんだ。アメリカに帰りたいよ」

 風見と桃園が気まずそうに視線を交わす。

 たじろぎながらも白熊は口を開いた。「それじゃ、あなたが──」

「僕が小勝負です」

 男が寝癖のついた頭をかいて、口も隠さず欠伸した。

「朝早く来ちゃったから、仮眠をとっていたんです」

 小勝負は三人掛けのソファに戻ると、ブランケットを折りたたんだ。積んである二箱の段ボールを持ち上げると、白熊の前の席に運んだ。

 段ボールのうち一つを開いて見せる。

「これ、実家のミカン。良かったらどうぞ」

 仏頂面のまま、ミカンを手に取って風見に差し出す。

「ミカン? ご実家どこ?」風見が訊ねた。

「愛媛です。実家は兼業農家をしています」

 桃園が目を丸めた。小勝負が愛媛出身であることを意外に思ったのだろう。

 白熊も、小勝負は東京の人だと勝手に考えていた。

「ありがとう。頂くよ」

 風見が立ち上がって、小勝負からミカンを一つ受け取った。小柄な風見と並ぶと、小勝負は頭一つ背が高い。

「沢山あるんで、三つくらいどうぞ」

 風見は面食らったようにまばたきをすると、言われるがままにミカンを受け取った。両手がミカンでいっぱいになる。

「じゃ、人事課に行ってくるんで」

 小勝負は首を左右にかたむけ、片手で寝癖をなでつけている。伸びをしながら大部屋を出て行こうとした。

「おい、君」風見が声をかけた。

 小勝負は振り返って、けげんそうな表情を浮かべた。

「私は風見慎一。入局二十二年目、課長補佐だ。特技は根回し。嫌いな言葉は弱小官庁。ダイロクへようこそ。うちで働いていると悔しい思いをすることも多いだろうが、よろしくな」

 小勝負は目を見開き、じっと風見を見つめた。驚いているのかもしれない。

「さっきは噂話をしていてすまなかった。みんな君に期待しているんだ」

 白熊は先ほどの会話を思い出した。

 小勝負がソファにいる間に、何かまずいことを言っただろうか。そこまでひどいことは言っていないはずだが、胸の内はひやりとした。

 小勝負はすぐに無表情に戻り、無表情を通り越して、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。

「期待? そういうのが一番嫌なんです。期待という名の支配でしょう。そういう、ぬるっとしたものが一番嫌いです。僕を他部署との競争の道具に使わないでください。狭い官庁の世界で上だの下だの、どうでもいいでしょう。僕は悔しい思いなんてしていない。分かったようなことを言わないで欲しいですね」

 小勝負はむすっとしたまま大部屋から出て行った。

「まったく、分かったようなことを言ってるのはどっちかしらね」

 小勝負の姿が見えなくなってから、桃園が漏らした。

 白熊もうなずいた。

 小勝負の物言いはいかにも幼く感じられた。正論と言えば正論だが、あえて言う必要もないことばかりだ。確かに白熊たちの態度も悪かったかもしれないが、上司である風見がきちんと謝ったのだ。謝罪に対する返答としてはあまりに失礼だ。

「いいんだ。彼の性格は人事課から聞いている。彼は他の人が持っていないものを持っているから、色んな人が寄ってきて、色んなことを言うんだろう。ま、それでこじらせてるわけだ。気長に誠実に向き合っていくしかないよ」

 風見の口調は穏やかだったが、目元には疲れがにじんでいた。

 中間管理職の風見は、現場の事件の責任者でありながら、他省庁や政治家と関わる機会も多い。霞が関内での調整に揉まれ、普段から疲弊している。そのうえで問題児を抱え込むとなると気苦労は相当なものだろう。

 白熊は我に返り、ゴミ袋を手にしていたことに気づいた。両手で抱えると大部屋の出口へ向かう。

 新しいチームで、新しい同僚。しかも小勝負のような問題児もいる。失態の末チームが替わった白熊だって、問題児なのかもしれない。このチームでやっていけるのだろうかと考えると、足取りは重くなった。

 

 新しい事件の割り当てがあったのは、一週間後のことだった。

「栃木県S市、ホテル三社のカルテルです」

 本庄審査長が穏やかに言った。

 五十代半ば、落ち着いた物腰のキャリア女性だ。

 グレーのワンピースにうぐいす色のカーディガンをあわせている。楚々とした出で立ちは、裕福な家庭の主婦のようにも見える。

「キャップは風見さん、主査は桃園さん。その下に小勝負さんと白熊さん。この四人で担当してもらいます」

 本庄審査長は会議室をゆったりと見渡し、四人それぞれの目を見て微笑んだ。

 調査の内容は厳格に管理されている。公取委という一つの組織の中でも、担当が違う者に漏らすことは許されない。

 くるりと背を向けると、ホワイトボードに簡単な図を描いた。

「案件の概要は単純です。栃木県S市のホテル三社が毎年、ウェディング費用を値上げしています。値上げ幅はぴったり同じ。三社で話し合って値上げ幅を決めているようです。そのせいで、S市の平均ウェディング費用は、他地域よりも十三%高い。一カップルあたり五十万円ずつ余計に払っている計算になる」

 タレコミを受けて、情報管理室調査班がある程度の下調べを済ませている。案件になりそうだと上で判断されたものだけが、審査の現場に降りてくる仕組みだ。

「実は同様のタレコミは、ずっと前からあったのです。たどってみると、一番古いタレコミは十五年前。一件あたりの金額は小さいですが、長期間にわたる悪質性があると見て、立件に乗り出すことにしました」

 白熊はそっと手を挙げた。

「近隣の式場が高いなら、他の町に行って挙式すればいいのではないでしょうか。その三社が共謀して値上げしたところで、消費者に見捨てられるだけです。消費者は何も困らないでしょう」

 本庄審査長はうなずいた。微笑みが浮かんでいる。

「うん、いい指摘ですね。でもこの地域の人たちは、どういうわけかこの三社ばかり使うのです。山に囲まれた地域で、交通の便が悪いのもあるのでしょう。周辺一帯の婚姻のうち約七割にあたる結婚式を三社でこなしています。そんな状況で、競合他社といっせーので値上げしている。これはカルテルと言ってよさそうです」

 事業者同士が話し合って、値上げなどの合意をすることを「カルテル」という。

 本来は値上げにとどまらず、取引相手に不利益をもたらしたり、不当に利益を得たり、公正な競争をゆがめる行為が幅広くあてはまる。その中でも一番典型的なのは、値上げの合意だろう。

 官公庁が行う入札に先んじて事業者同士が話し合うのもカルテルの一種だ。これは特に「談合」と呼ばれることが多い。

 裏で手を組み、競争をせずに利益を得ようとする構造は共通だ。

「ホテル同士の密談の場があるはずですが、情報管理室はそこまでは押さえていない。まずは密談の場を押さえる方向で調査してください。ある程度探ってから、立入検査です」

 部屋の中のメンバー一同が唾を飲み込んだ。「立入検査」という言葉が出ると、背筋が伸びる。

 公取委の調査は秘密裡に進められる。

 立入検査が行われるまでは。

 ある日突然、一斉に調査対象の全事業所に立ち入って、証拠品を押収する。それが立入検査だ。

 立入検査の出来次第で、案件を仕上げられるかどうかが決まる。キャップの腕の見せ所だ。

 本庄審査長が説明を終え、会議室を出て行った。

 早速、風見キャップが具体的な業務をメンバーに割り振る。小勝負と白熊は当面、栃木県に出張して内偵してくるよう命じられた。

 白熊は資料に視線を落としながらつぶやいた。

「一組五十万円余計に払ってる。五十万円と言えば、この地域の若者の月収二ヵ月分以上ですよね。若いカップルが一年間貯金して、やっと貯まる金額。それを抜き取っていくなんて、ひどい」

 黙って資料を読んでいた小勝負が顔を上げ、白熊を見つめた。

 その視線に、白熊はむっとした。素朴な感想を馬鹿にされたような気がした。

「なによ?」

「何でもないけど」

 小勝負はすぐに視線を逸らした。

 風見が活を入れるように、両手を叩く。

「確かにひどい。だからこそ、俺たち公取委がいるんだろ。しっかり調べるぞ」

 それを潮に、それぞれが持ち場に戻っていった。

 

「また出張なの?」

 徹也がぼやいた。白熊が作った焼きそばを箸でつついている。

「そう、今回も長くなりそう」

 白熊は目を伏せた。出張を徹也に知らせるときは、いつも気まずい。徹也がよく思っていないことを知っているから。

 徹也は大学の空手部の先輩だった。白熊よりは三歳年上の三十二歳だ。神奈川県で警察官をしている。付き合いだしたのは白熊が二十四歳の頃だ。部活の同窓会の帰りに、キャリアの相談に乗ってもらったのがきっかけだった。

 ちょうど父がけがをした直後で、母の三奈江から警察学校退学を迫られているときだった。

「どんな仕事よりも、家族が一番大事じゃない?」

 相談を受けた徹也は穏やかに言った。

 空手も強く、人一倍面倒見のいい先輩だった。長男で、下に妹がいるというのも影響しているのだろう。試合の応援に来ていたから、徹也の母も知っている。徹也は酒飲みの父から母と妹を守り続けていた。

「俺は、他の何よりも家族が一番大事だと思う」

 さっぱりと言い切った徹也に惹かれた。この人とだったら、幸せな家庭が築けそうだと思ったのだ。公正取引委員会への就職が決まったタイミングで、徹也と付き合い始めた。

 夜勤もある徹也とは、休みが合わない。徹也の家で月に二、三度会っている程度だ。互いに恋愛体質というわけではない。そのくらいの距離感でも関係は長続きした。というか、だらだらと五年間も続いている。

「じゃあ、今度の式場見学はキャンセルだね」

 徹也の口調は冷たかった。わざと冷たく言っているのも分かっている。

「ほんとごめん。来月には時間ができると思うから」

「別にいいよ。俺も実は同僚の送別会があったんだ。予定があるからと断っていたけど、顔を出せそうだ」

 式場を見に行かないかと言い出したのは、徹也のほうだった。つい先月、八月のことだ。プロポーズらしいプロポーズはない。けれども徹也の意図は分かっていた。

 今年の初夏に、徹也の母に初期の乳がんが見つかった。適切な治療を受ければ、充分に寛解可能なものだ。だが徹也の母は弱気になっているらしい。

 年末か正月頃に、母親に良い報告をしたいのだろう。結婚式の日取りを決めて、それまで治療を頑張るよう促したいのだ。

「ほんと、ごめんね。でも式場は、きっと見に行こうね」

 白熊は謝るしかなかった。

 恋人との式場見学は延期して、出張先で結婚式場の内偵をする。皮肉なことだが、案件内容は誰にも漏らせない。

 白熊は胸の内で苦い思いをひっそり抱えた。

「そういえば、甲賀さん、昨日退院したらしいよ」

 徹也が一転、明るい声で言った。

「そうなの? よかったあ」

 白熊の頰が自然とゆるんだ。

 甲賀佐知子は、ミズ競争法と呼ばれた女だ。

 約四十年にわたり公正取引委員会に勤め、女性初の委員長になった。公取委内では伝説の人物のように語られていたが、入局するまで白熊は何も知らなかった。

 甲賀は十数年前に定年を迎え、今はただの空手愛好家だ。徹也が通っている空手道場の先輩にあたるらしい。進路に悩んでいたときに徹也に紹介してもらった。

「警察官になるのを諦めて、公正取引委員会に来る人って、結構いるのよ」

 練習帰り、タオルで汗を拭きながら甲賀は言った。にっこり笑うと顔には深いしわが刻まれた。丸顔と相まって、梅干しのようだった。

「調査をして、事件を明らかにして、悪い人を捕まえて……ってプロセスは、警察も公取委も一緒だからね。国民を守って正義を実現するのも同じ。切り込み方が違うだけなの」

 甲賀の言葉がきっかけで、公正取引委員会に興味を持った。

 実は話をする前、練習中の甲賀を遠目に見ていた。遠くからでも釘づけになった。力んでいないのに力強い。見事な型だった。そこには何か、甲賀の生きざまがにじんでいるように思えた。

 公正取引委員会が何をするところなのか、当時は何も分かっていなかった。けれども、あの美しい型を披露する甲賀が長年勤めていた。それだけで白熊には充分だった。

「転んで骨折してたんだっけ?」

「そうそう」徹也がうなずいた。「あんなに颯爽とした甲賀さんが転んで骨折なんて、信じられないよな。年取るって残酷だな」

 焼きそばを食べ終えた徹也が、空になった皿を差し出す。白熊は黙って受け取ると洗い場に向かった。

 入院中、お花を贈ったものの、仕事が忙しくて面会には行けていなかった。退院祝いに顔を出さないと、と思う反面、会うのを億劫にも感じる。会えば必ず仕事のことを訊かれるだろう。どういう顔をして近況を話せばいいか分からない。

 小さくため息をつきながら食器を洗った。とっくに皿は綺麗になっていたが、無心になりたくて何度もスポンジをこすりつけた。

<第3回に続く>