内偵予定のホテルで殺人未遂事件が発生! 現場で見かけた怪しい人物を尾行していると…/【月9ドラマ原作】競争の番人③

文芸・カルチャー

公開日:2022/8/3

フジテレビ月9ドラマでも話題! 『元彼の遺言状』著者・新川帆立さんによる「公取委」ミステリー『競争の番人』(講談社)。

市場の独り占めを取り締まる公正取引委員会の審査官・白熊楓は、東大首席・ハーバード大留学帰りのエリート審査官・小勝負勉と同じチームで働くことに。反発しあいながらもウェディング業界の価格カルテル調査に乗り出すが…?

理屈抜きで面白い王道エンターテインメント小説の冒頭を、全5回で試し読み!

※本稿は新川帆立著の小説『競争の番人』から一部抜粋・編集しました。

競争の番人
競争の番人』(新川帆立/講談社)

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 栃木県S市に来て、地道な調査が一週間続いた。せっかくの温泉地なのに、温泉も出ないビジネスホテルに連泊している。

 今回カルテルの疑いがかかっているのは、「Sクラシカルホテル」、「温泉郷S」、「ホテル天沢S」の三社だ。いずれも高度経済成長期に開業し、バブル期に大きく収益を伸ばした。その後の収益は良くて横ばい、ほとんどジリ貧のようだ。

 周囲の飲食店、貸会議室、ロータリークラブなど、経営者らが集まりそうな場所を中心に、しらみ潰しに聞き込みを行っている。だが、これといった成果はない。

 唯一分かったことは、三社の経営者、三人ともがこの地域の有名人だということだ。飲食店に出入りしていれば、地元の人ならすぐに分かる。人目につかずに三人が密談を重ねるのは困難に思えた。

 となると、それぞれのホテルを密談の場に使用しているかもしれない。地道ではあるが、時間と場所を決めて張り込みをするしかない。昨晩も遅くまで三社のうち「温泉郷S」に張りついていた。

 その間、小勝負と会話らしい会話はほとんどない。

 小勝負が何を考えているのか見当もつかない。何を言われたわけでもないが、何も言われないこと自体、見下されているためのような気がして、胸の内がちくちくした。

 移動のためのレンタカーは当然のように白熊が運転し、小勝負は助手席にむっつり座っているだけだ。小勝負は自動車とバイクの免許を持っているが、自動車のほうは免許取得以来乗っていないという。

「普段からバイクだけ乗ってるの?」

 昨日の移動中、白熊が訊くと、小勝負は面倒くさそうに答えた。

「バイクで旅行するのが趣味なんです」

「男のロマンってやつ?」

 茶化そうとしたが、小勝負は冷たく返した。

「いや、男とか女とかじゃなくて、僕のただの趣味です」

 助手席を盗み見ると、悔しいくらい綺麗な顔がそこにあった。

「黙ってたらモテるって、よく言われない?」

 意地悪な言い方をした。小勝負はやはり面倒くさそうに口を開いた。

「それ、セクハラですよ」

 低俗な奴だと思われただろうか。だが白熊としては、何の会話もないと気まずいから話題を振っている。こちらの気遣いを無視して、冷たい態度をとられたことに腹が立った。本人は仕事に関係しない会話は不要だと思っているのだろう。

 そして今日も、一日じゅう小勝負と過ごすことになる。

 スマートフォンを握りしめながら、一階の朝食エリアに降りていった。新しいメールはないか何度も確認する。

 昨日、豊島の自殺について記者会見が開かれた。談合の摘発自体は順調に進んでいる。記者会見で何か新しい展開が生じるわけではない。本庄審査長と遠山が経緯を説明し、謝罪する。それだけの会見だった。担当を外された白熊は記者会見に同席することもできず、こうして別件の張り込みを行っていたが、罪悪感で気もそぞろだった。

 豊島の妻や美月が記者会見を見て、どう思うだろう。謝罪なんて聞きたくないかもしれない。怒るならまだいい。無力感や絶望感に襲われないだろうか。後追い自殺をする可能性だってある。

 朝食エリアでは、小勝負はすでに朝食を食べ終えていた。コーヒーを片手に新聞を読んでいる。白熊が正面の席に座ると、小勝負は短く言った。

「まずいですね」

「何が?」

「今日の朝刊」

 小勝負は手元の新聞を広げて、記事の一つを指さした。が、その記事を見せてくれる親切心を示すこともなく、新聞紙を鞄にしまった。

「見せてくれても──」

「昨晩、『Sクラシカルホテル』で殺人未遂事件がありました」

 白熊の言葉を遮って、小勝負が言った。

「『Sクラシカルホテル』のオーナー社長、安藤正夫が刺されました。ホテルのエントランスを出てすぐのところでの犯行です。安藤は重体で意識が戻っていない。凶器らしい刃物は現場に残されているが、指紋はない。刃物の購入ルートも不明。防犯カメラに立ち去る人物の映像は写っている。身長は百七十センチから百七十五センチ。黒いパーカのフードをかぶり、サングラス、マスクを着用。人相は不明。犯人は捕まっていないどころか、容疑者の絞り込みにも苦労しているようです」

 思わぬ事態に白熊は固まった。

「殺人事件って……」

「殺人未遂事件ですね」

「細かいなあ」

 ここ数日の安藤の動きに不審な点はなかった。夕方過ぎくらいまで働き、夜には会食が入る。会食相手はすべて取引先だった。会食をしていないときは地元のキャバクラに小金を落とす。地方の中小企業経営者としては典型的な生活だ。

「今日は『Sクラシカルホテル』で内偵する予定だったよね」

 小勝負はうなずいた。

「警察の捜査で騒がしいことになっているかもしれませんが。一応、予定どおり内偵を続けるしかないです。その方針を先ほど風見キャップにも確認しました」

 早朝から小勝負は新聞を読み、案件に影響する事件について上司に確認をとっていたのだ。一言くらい事前に白熊に相談があってもよさそうだ。だが小勝負は白熊よりも上席にあたる。白熊への確認は不要だと考えたのだろう。それも分かっているが、白熊のいないところで、勝手に話が進んでいるようで気分は悪かった。

 朝食を終え、レンタカーに乗り込む。

 二人とも普段着を着ていた。スーツ姿の二人組が地方の温泉街をうろつくと目立ちすぎる。内偵がバレるようなことがあると、案件自体が潰れてしまいかねない。不審に思われないようにする必要があった。

 秋の入り口に差し掛かり、朝晩は肌寒く感じる日が続いていた。

 小勝負はジーンズに黒いTシャツ、黒い革ジャンを着ている。普段バイクに乗るから革ジャンが好きなのか、と邪推したが、訊いても面倒くさそうにされるだけだから尋ねなかった。

 白熊はポリエステル製のワンピースにショートブーツを合わせていた。薄いベージュのジャケットを上から着ている。横に並ぶと白黒で、いかにもチグハグだ。

 その日に見張る予定の「Sクラシカルホテル」に車を入れると、エントランスから一番遠い場所に車をとめる。ホテルスタッフに顔を覚えられないようにするためだ。とはいえ仮にスタッフの目に留まっても、式場を見に来たカップルにしか見えない。さしたる印象を残さずにすむだろう。

 十五階建ての「Sクラシカルホテル」は渓流を見下ろす絶好のスポットに建っている。川沿いに横長の建物が伸びていた。川と反対側には、広大な駐車場が広がっている。

 バブル期に建てられたので、多少の老朽化はある。それでも、大理石のエントランスは隅々まで磨かれていた。時代の逆風に負けまいというスタッフの叫びが聞こえてきそうだった。

 エントランスの脇、駐車場に向かう歩道の一部に黄色い「立入禁止」のテープが巻かれていた。大勢の警察官がしきりに出入りしている。改めて駐車場を見ると、報道関係者と思しきワゴンが数台とまっている。

「僕たちには関係のないことです。内偵の続きをしよう」

 小勝負は大股でホテルに入っていった。白熊は小走りで後を追った。

 真紅のカーペットを踏んで、結婚式場の相談コーナーへと進む。窓口数やスタッフ数を素早く確認した。帰り際、宴会場の数も確認する。いずれも事前情報と齟齬はない。

 一旦引き上げようとロビーに引き返したところで、小勝負が突然止まった。その動作があまりに急だったので、小勝負の背中に白熊の頭がぶつかった。

「わっ」

 白熊が小さい声を上げると、小勝負は振り返って、人差し指を口に当てた。

「あそこ、見てください」

 小勝負は小声で言った。

 その視線は、ロビー脇のラウンジに注がれていた。平日の昼間だから、客はまばらだ。紅茶を飲んでいる老夫婦、それぞれに幼児をつれた女性二人組、関係性の怪しさが臭う歳の差カップル。その先にひとり、四十代くらいの男性が座っている。

 茶色いツイードのジャケットを着て、いかにも商談に来たという雰囲気だ。その顔を見て、白熊もピンときた。

 天沢グループの専務、天沢雲海だ。カルテルの疑いがかかっているホテル三社の一つ、「ホテル天沢S」を経営している。

 事前に関係役員の名前と顔写真は予習してある。特徴的な鉤鼻で、すぐに分かった。雲海という大仰な名前の彼は、天沢グループの創業者一族の一員だ。現社長の長男坊で、三代目社長への就任が確実視されている。

 天沢グループは全国にホテルを有している。雲海は関東地方を所轄していたはずだ。栃木県にある「ホテル天沢S」の責任者でもある。

 重役が競合企業を訪ねるのは、かなり怪しい。あからさますぎるくらいだ。

 カルテルは通常、申し合わせてこっそり行われる。警察はカルテルに興味などないから、警察官が集まっていることは差し引くとしても、人目のあるホテルラウンジにいるのは迂闊すぎる。逆に白かもしれない。が、一般論から言うと嫌疑は強い。

「白熊さんは駐車場を」

 小勝負の指示に白熊はうなずき、ホテルを出た。小勝負はホテル内に残り、雲海を見張るようだ。

 駐車場にとめてある車のナンバープレートを、手持ちのカメラで撮影していく。後で所有者登録を調べるのだ。天沢グループの社用車がとまっているかもしれない。カルテルが疑われているもう一社、「温泉郷S」の社用車が発見される可能性もある。

 同じ駐車場に競合企業の社用車が複数とまっている場合、そこが密談の場である可能性が高い。

 白熊は駐車場を駆け回り、素早く写真を撮っていった。あと二台というところで、小勝負からメッセージが入った。

『雲海移動。駐車場へ向かった』

 顔を上げ、エントランスを見る。まだ雲海は現れていない。

 弾かれた輪ゴムのように白熊は飛び出した。ものの数秒で残りの二台の写真を撮る。

「ちょっと君、何をしているの。コソコソ写真なんか撮って」

 脇から声がかかった。振り返ると、制服姿の警察官だ。事件現場に集まった警察官の一人が、白熊を不審に思ったのだろう。

「いや、その」

 とっさに言葉が出ない。

 説明している時間はない。

 じりじりと気持ちだけが焦った。

「今度新車を買うので、参考に写真を撮っていただけです。それでは」

 勢いで言い切って、踵を返した。走るわけにもいかない。なるべく自然な速さで歩いて、自分たちが運転してきた車に向かう。

 ドアに手をかけると、素早く乗り込んだ。

 あいにくエントランスから遠いところにとめている。運転席でスマートフォンをいじるふりをしながら、エントランスに目を凝らす。

 数十秒後に雲海が出てきた。茶色いブリーフケースを持って、ゆっくりとした足取りだ。事件現場を横目でちらりと見るが、特段の興味を示す素振りはない。

 そのままエントランス前にぼんやり立っている。

 小勝負はホテルの中から見張っているはずだが、エントランス前に雲海がいるせいで、出て来られない状況なのだろう。

 まもなく脇の道路から黒いセンチュリーが滑り込んだ。雲海の立っている位置から十メートルほどのところにとまる。本来なら雲海の目の前に行きたいだろう。だが事件現場が邪魔で近づけない。

 運転手は窓から顔を出して周囲の様子をうかがった。雲海が手をパタパタと振った。「いいよ、僕が動くから」という意のようだ。ゆっくりと歩き出す。

 雲海が迎えの車に気を取られているすきに、小勝負がエントランスをくぐって外に出てきた。

 白熊は速やかにエンジンをかけ、近くに寄せようと車を出す。

 雲海が車に乗り込むと同時に、小勝負が早足で白熊のほうへ歩き出した。

 早く! 胸の内で叫んだ。

 小勝負が助手席に乗り込んだときには、雲海の車は脇の道路へ出ようとするところだった。すぐに車を発進させる。

 間に一台他の車を挟んで、雲海を追った。何度か車を見失いそうになるたび、小勝負が「ほら、右折です」とか「左折に決まってますよ」などと言ってくる。ペーパードライバーのくせにと思いながら、言い返す余裕もなく指示に従った。

 二十分くらい走っただろうか。二つ目のトンネルから出たところで、鞄の上のスマートフォンが鳴っていることに気づいた。

「遠山さんからみたいです」

 画面をちらっと見た小勝負が言った。

「出てくれない? スピーカーフォンにして」

 視線は前方、雲海の車に固定したまま言った。いま雲海を見失うわけにはいかない。遠山は白熊が内偵中だと分かっているはずだ。それでなお連絡してくるのだから、緊急の用件があるように思われた。

「もしもし」

「もしもし?」

「小勝負です。白熊さんは運転中なので代わりに出ています」

「豊島美月の行方を知らないか、白熊に訊いてくれ。昨日から行方が分からないらしい」

 遠山の野太い声に頭を殴られたような衝撃を受けた。

「美月ちゃんが行方不明って、どういうことですか」

 とっさに話に割り込んだ。

 美月はまだ高校二年生だ。十六歳の少女が一晩を過ごせるところは限られている。単なる家出かもしれないが、家出の途中で犯罪に巻き込まれる青少年は後を絶たない。美月に何かあったらと思うと、肌が粟立った。

「白熊さん、右! 右折です」

 小勝負の声にハッとする。交差点の手前まで来ていた。あやうく雲海の行方を見失うところだった。周囲を素早く確認し、ハンドルを右に切る。一台挟んで前に雲海の車が見えた。

「遠山さん、私は何も知りません。何かあったら私にも知らせてください」

 遠山は「分かった」と短く言うと電話を切った。

 胸の動悸は収まらなかった。

 美月も心配だが、美月の母親もパニックになっているだろう。

 この前美月と話したときに、もっと別の対応ができていたら、事態は変わっていただろうか。それを考えると胸の内が冷えた。豊島浩平との最後の会話も後悔していたのに、何度同じような後悔を繰り返すのだろう。その間に何人の犠牲者が出てしまうのだろう。

「ちょっと」

 急に肩をつかまれた。助手席の小勝負から手が伸びている。

「今は雲海に集中しろよ」

 いつもの敬語はかなぐり捨てた、厳しい口調だ。

「僕たちにできることは何もない。自分の仕事をするしかない」

「でも、美月ちゃんに何かあったらと思うと」

「家出人を探すのは警察の仕事だ。白熊さんは警察官じゃない」

 小勝負が何気なく放ったであろう言葉が、白熊の胸をえぐった。

 自分は警察官ではない。

「そんなこと分かってるよ」

 つい強い口調で返した。

 自分でもびっくりするくらい、とげとげしい言い方だった。

「でも人の命がかかってるんだよ。警察でないからって放っておくことはできないし」

「じゃあ、何ができる? 豊島美月の居場所を知らないんだろう。白熊さんには何もできない」

 小勝負の言っていることが正しいのは分かっていた。何もできない自分の無力さが憎かった。

 今ごろ警察は行方不明者届を受理して、捜索を開始しているだろう。警察に任せておけばいい。その警察の一員に自分がいないことが、悔しいだけなのかもしれない。

 小勝負は頭をかいて、首をかしげた。

「だいたい、豊島浩平さんの件も白熊さんは気にしているみたいだけど。本来は気にする必要ないんだ。白熊さんは談合の取締りのために聴取をした。それだけだ。聴取対象者のその後の人生に責任をもつ必要はない」

 淡々とした物言いに腹が立った。

 正義を貫こうとした情報提供者が、その後に進む暗い道を知らないのだ。小勝負は知らないだろう。村社会から抜けて、告発することの怖さを。どれだけ勇気が必要か。告発後にどういう扱いが待っているか。

 何か言い返そうとするも、うまく言葉にならない。言葉にすると、急に薄っぺらくなるような気がする。

 やっとの思いで言葉を絞り出した。

「聴取で自白した後って、不安定になりやすいんだよ。周囲からの圧力もあるし。何らかのケアが必要なんじゃないかと思う」

「でもそのケアは白熊さんの仕事じゃないだろ」

 小勝負はあっさりと言った。

「でも人の生き死にがかかってるんだから、仕事かどうかという問題ではなくて」

 白熊の声は震えていた。

 必死にハンドルを握って、前方を注視している。道は一直線で雲海を今すぐ見失うような状況ではない。けれども、まっすぐ前を向いていないと、泣き出してしまいそうだった。

「談合がなかったら、豊島浩平は死ななかった。その談合が起きないように、一つずつ潰していくのが僕たちの仕事だ。雲海を追うのもそのためだろ。目の前の仕事に集中してくださいよ」

 何も言い返せなかった。

 納得しているわけではない。美月を心配する気持ちが消えるわけではない。さっさと気持ちを切り替えて、目の前のことに集中するとか、そんな器用なことはできない。小勝負のように仕事を仕事と割り切ることは、どうしてもできなかった。

 かといって、白熊にできることは何もない。無力な自分に対してイラついているのは分かっているが、いつの間にか小勝負に対するイラつきに変わっていた。

 頭がよくても冷たい人だ。

 そんな人に偉そうに指図されるのが腹立たしかった。

 図星だから腹が立つのだろう。

 警察には警察の役割があり、公取委には公取委の役割がある。警察官になれなかった自分が、そのこだわりを引きずって、目の前の公取委の仕事に集中できていない。それを指摘された気がした。

 でも、ああいうきつい言い方をしなくてもいいのに、とも思う。

 デリカシーがないというか、想像力がないというか。相手が何を抱えているか分からないのだから、自分の言葉がいたずらに人を傷つけうるのだと、少しは考えて欲しい。といっても、そんなこと小勝負に伝えるわけにもいかない。言っても分からないだろう。

 それから十分ほど走った。車内の会話は何もなかった。

 山岳部を抜け、隣の市の温泉街まで来ている。

 雲海の車は駅前でとまった。

 白熊も、少し離れたところに車をとめる。

 車を降りた雲海は、運転手に一礼すると、駅の入り口に向かって歩き出した。すかさず白熊たちも車を降りて、後を追う。

 時刻は正午近くになっていた。観光名所を回る人たちが、昼食をとるため移動している時間帯だ。

 駅前はそれなりに人出があった。ぶつかるほどではないが、パッと見て、五、六組の観光客は視界に飛び込んでくる。

 雲海とは一定の距離を取りながら歩いた。駅に入って改札の前まで来た。そのまま電車に乗るのかと思いきや、雲海の動きがぴたっと止まった。

 尾行に気づいたのかもしれない。

 心臓が跳ねるような気がした。

 雲海は改札の脇に避けると、ポケットからスマートフォンを取り出した。電話に出たようだ。何か話している。行き交う人の雑踏で、何を話しているかは分からない。電話を切ると、くるりと振り返って来た道を戻り始めた。

 白熊たちは改札傍の券売機の前にいた。雲海から目を逸らし、券売機を操作するふりをする。

 雲海が通り過ぎるのを待つ。

 数秒が長かった。

 顔を上げ横目で確認すると、雲海は駅の入り口まで戻っていた。

 小勝負と白熊は目顔で合図を交わすと、駅の入り口に向かって歩き出した。

 そのとき急に、小勝負が白熊の手を握った。

 驚きで声が出そうになったが、ぐっとこらえる。

 不審がられているかもしれない。カップルのふりをしよう、ということだと分かった。分かってはいるけど、突然のことに身体がこわばった。そのせいで雲海を追う歩みがゆるんだ。

 すると一歩前にいる小勝負がちらりと振り返った。

 その顔を見て、悔しいけれどドキリとした。ずるいと思った。

 そして自分が情けなかった。こんな嫌な男にドギマギしている自分が恥ずかしい。

 小勝負は白熊の手を引っ張った。花火大会の人込みではぐれそうな彼女を引っ張るような動作だ。

 顔が熱くなる。ドキドキしているせいではない。意識している自分が恥ずかしくて、情けなくて、どうしようもなかっただけだ。

 二十代後半の女が、異性と手をつなぐだけで動揺するなんてみっともない。学生時代は空手ばかりしていた。徹也以外との恋愛経験はない。徹也以外の男と手をつないだのも、初めてだった。

 動揺を悟られぬよう足を速めた。

 斜め上を仰ぎ見ると、小勝負は平然とした顔をしている。そりゃそうだ。仕事なんだから。でもその仏頂面が小癪で腹立たしい。

 前を行く雲海は、依然としてゆったりとした足取りだ。

 迷う素振りも見せず、温泉街に入っていく。小さい橋を渡って、旅館が立ち並ぶエリアを抜けると、表通りから一筋奥まった通りに入った。小料理屋が並んでいる。家族連れが出入りするような場所ではない。使うとしたらカップルか接待だ。

 これはもしかすると、本当に密談の場を押さえられるかもしれない。

 期待しながら歩いていたが、周囲を行き交う人は次第に減ってきた。あまりに人が少ないと、尾行がバレる可能性は高まる。

 五分ほど歩いたところで、雲海が立ち止まった。

 白熊はとっさに小勝負の腕を引いて、店と店の間の一メートル足らずの空間に身を隠した。奥は住居になっていて、狭い私道のようだ。小勝負と身体が密着したが、雲海の動向を探るのに必死で気にならなかった。

 身をかがめながら、片目だけ出して様子をうかがう。

 雲海はしきりに左右を見渡している。不思議と背後への警戒はない。

 そのとき、「おい」という野太い声が聞こえた。

 声の出どころは雲海の周辺だ。雲海が声を出したのかと思ったが、雲海は右側に振り向き、身体を硬くしている。

 右側から、小柄な男が飛び出してきた。

 その手には包丁が握られている。

 男が何か言っている声が聞こえるが、何を言っているのか分からない。

 男はじりじりと雲海との距離を詰め、包丁を近づけた。

 白熊は息を飲んだ。

 一瞬、迷いが胸の内をかすめた。

 ここで飛び出しては、これまでの尾行が無駄になる。

 次の瞬間、小勝負が白熊を振り返り、肩をつかんだ。

「白熊さんは、ここにいて」

 そうささやくと、小勝負は男めがけて駆け出した。

 男まであと数メートルというところで、男は小勝負に気づいた。

 危ない、と思った。

 身長の高い小勝負は、高い重心のまま走っている。刃物を持った男からすると、狙いを定めやすい。

 白熊は弾かれたように飛び出した。

 視界にしっかり男を捉えている。男は小勝負を振り返った。刃先が小勝負のほうを向く。男は慌てたように、刃物を振り回した。小勝負はやっとのところで避けた。姿勢を崩し、反撃がワンテンポ遅れた。

 白熊のほうが早かった。

 姿勢を低くして近づき、男の向こう脛に蹴りを入れた。

 男はうめき声を漏らしながら、とっさに脚をかばった。

 包丁がカラリと音を立てて落ちる。小勝負がそれを素早く拾った。

 白熊は男の上に馬乗りになり、両手で男が着ているスウェットの襟をつかんだ。そのまま首を固定し、絞めあげる。男は一瞬苦しそうにしたが、まもなく失神した。白熊はすぐに手を放す。

「大丈夫なのか、その人」

 額の汗をぬぐいながら、小勝負が言った。

 男は口を半開きにしたまま倒れている。スウェットの袖から出た手はぴくりとも動かない。

「失神しているだけだよ」

「失神って……大丈夫なの?」

「大丈夫。絞め技の一つだよ。警察学校で習った」

 小勝負は目を見開いて白熊を見つめた。引いているのかもしれない。こめかみをかきながら、白熊から顔をそむけた。すぐに無表情に戻った小勝負はスマートフォンを取り出し、手早く警察と救急に電話をかけた。

 傍に立っていた雲海が低い声で言った。

「なんだお前たち。何者だ?」

 白熊は失神している男を見下ろしながら、嘆息を漏らした。内偵に気づかれたかもしれない。人命のためには仕方ない。けれども頭が痛かった。

 隣を見ると、小勝負が諦めたように肩をすくめた。しょぼくれた小勝負の様子を見て、少しだけ笑ってしまった。

 そのときスマートフォンが震えた。遠山からメールが入っている。急いで開くと、淡々とした文章が視界に飛び込んできた。

『豊島美月は見つかった。家出して友人の家にいたらしい。無事に保護された』

 胸のつかえが下りたような心持ちだった。今日起きた出来事の何よりも嬉しい。美月の母親もやっと生きた心地がしただろう。

「ほんと、よかった」

 目尻に浮かんだ涙をぬぐうと、隣の小勝負がぼそっと言った。

「泣かなくてもいいだろ」

 つまらなそうに、両手を革ジャンのポケットに突っ込んでいる。

「別に泣いたっていいでしょ」

 白熊が言うと、小勝負はもう一度肩をすくめた。

<第4回に続く>