【対談】「うまさ」だけが絵描きのすべてじゃない。描き方の理論をまとめた意義――漫画家・篠房六郎×イラストレーター・さいとうなおき
公開日:2022/8/10
1998年、『やさしいこどものつくりかた』(講談社)でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞し、マンガ家デビューした篠房六郎さん。以降、『ナツノクモ』(小学館)、『百舌谷さん逆上する』(講談社)、『おやすみシェヘラザード』(小学館)などの人気作を発表していった。篠房さんの作品の魅力といえば、やはりキャラクター造形のリアルさにあるだろう。何気ない仕草やポーズが画面映えしている上で、読み手に違和感を抱かせない。だからこそ気付けば、作品世界へ没頭してしまうのだ。
そんな篠房さんが自身の技術を惜しげもなく披露し、絵を描く上での理論を端的にまとめた一冊が話題を集めている。それが『描きたいものを理論でつかむ ポーズの定理』(KADOKAWA)だ。
ひねった体の描き方、歩く、走る、座るなどの日常ポーズのコツ、アクションポーズの魅せ方など、どれもわかりやすく、高い再現性とともに解説されている。
篠房さんはなぜ、こんなにも理論的に考えているのか。そしてまるで手の内を明かすように、自身の技術を伝えようとしているのか。本作にこめた思いをもとに、イラストレーターであり人気YouTuberでもある、さいとうなおきさんと対談していただいた。
ふたりの対談から浮き彫りになる、絵描きとしての生存戦略とは。
■理論を知ることで、最低限のクオリティを保てる
――『ポーズの定理』を読んでみて、さいとうさんの印象に残ったパートはどこでしたか?
さいとうなおき(以下、さいとう):全編面白かったんですが、最も印象的だったのは「CHAPTER4 絵を描く上でのポイント」にある「ひねりの作画の注意点」。ひねった胴体のサンプルスケッチがたくさん載っているページです。絵が上手な人って、手足を省いた胴体だけを延々スケッチしていることが多いんですよ。何故かというと、実は一番大事なパーツなのに意識しにくいところでもあるから。手足はどう曲がっているかが目に見えてわかるパーツなので描きやすいけれど、胴体のひねりは変化が微細で、ものすごく意識しないと描けない。逆に言えば、胴体のひねりを上手に描けるようになると、そこに手足をくっつけるだけでとても自然な絵になるんですよ。だからこそ、胴体のひねりについてしっかり説明されている「ひねりの作画の注意点」は、価値のあるページだと感じました。
篠房六郎(以下、篠房):いやぁ、ありがとうございます。自分としては、胴体のひねりなんて、わざわざ説明しなくてもいいかもしれない……と思っていたくらいだったんですけどね。
さいとう:でも初心者からすると、プロが「ここは説明しなくてもいいよな」って思うところこそ知りたいものです。
篠房:もともと、ぼく自身が胴体のひねりを上手に描けないこともあって、「だったらパターンを覚えてしまえ!」とスケッチするようになったのがはじまりなんです。胴体のひねりを描く上で何が難しいかというと、服の下、つまりイラスト上では見えない部分がいかに自然にひねってあるか、を伝えること。
さいとう:わかります。見えている部分はわかりやすく描けますもんね。
――ひねりに限らず、『ポーズの定理』では人体の描き方がとても理論的に解説されています。これを読むと、篠房さんが理論に基づいて絵を描かれていることがわかりますね。
篠房:それには理由がありまして……。〆切があるマンガ仕事の場合、感覚だけを頼りにするのが危険なんです。調子がいいときはスラスラ描けるけれど、たとえば切羽詰まってきて睡眠時間すら取れない状況に追い込まれると、感覚が死んでしまう。すると、途端にクオリティが下がるんです。でも、理論的な思考をもとに絵が描けるようになると、どんなに感覚が死んでいる状態だとしても最低ラインは担保できる。
さいとう:そこまで追い込まれたことがないので、耳が痛いです(笑)。ぼくは完全に感覚派ですね。YouTubeでイラスト技法について解説していますし、『さいとうなおきのもったいない!イラスト添削講座』(KADOKAWA)という著書も出しているので、理論的だと思われがちなんですけどね。とにかく「めっちゃいい感じにしよう!」と思いながら描いてみて、結果、いい感じになるという(笑)。ただ、いい感じになっているということは、何らかの理論に当てはまって完成しているということだとも思います。とはいえ、最初から理論立ててしまうと固くなってしまうので、あくまでもぼくは感覚を頼りに描くことが多いですね。
篠房:ただそれだと、アシスタントさんにうまく伝えられないんですよね。そこに理論があると、きちんと説明できる。
さいとう:たしかに、それはわかります。「ガーッと描いたらいいよ」なんて言っても、納得してもらえないですし。YouTubeで解説するときはなるべく理論的に言語化することを意識しています。それでもうまく言語化できないこともあるんですけど……。
■次世代に渡すバトンのような役割
――言語化できないテクニックというものも存在していて、無理やり理論的に考える必要はないということでしょうか。
篠房:「理論に縛られると自由に描けなくなる」という声はよく聞きます。でも、理論を知ることで幅が広がることって確実にあるんですよ。ぼく自身、こうしてポーズにまつわる理論をまとめたことで、描けるポーズが格段に増えました。逆に、「自由に描きたい」と主張する人の「自由」というものが怪しいこともあって。たとえば「自由に葉っぱを描いてみてください」というと、真上から見た葉しか描かなかったりする。
さいとう:なるほど。「自由」と言いつつも、実は楽なもの、描きやすいものに逃げているということもありますね。
篠房:そうそう。ダンスにたとえるならば、踊りの素養がない人に「自由に踊ってみて」と言ったところで、簡単にできる動きを選択するので、みんな似通った凡庸なダンスにしかならない。でも、体系的にバレエの勉強をやってきた人ならば、非常にバリエーションが多く、アレンジの豊かなダンスが踊れる。
――つまり、素地があって初めて「自由」に表現ができる、と。
さいとう:そういう意味で言うと、『ポーズの定理』は絵を描く上での“基本の型”を示してくれている、ありがたい一冊ですよね。まずはここで語られている定理を一通り学び、それを踏まえて自由に崩していくのが有効な上達法かもしれません。
篠房:昔の人に比べて今の人たちって、確実に絵がうまくなっていると思うんです。それは昔の人が劣っていたということではなくて、上手な絵をたくさん見る機会に恵まれているから。今はネットで検索すればいくらでも優れた絵が出てきて、それを模写できる。だから上達したいなら、まずはプロの絵をたくさん真似て、理論を掴むのが近道かなと思います。
さいとう:この本って、次世代にバトンを渡すようなものですよね。ふつうならバトンを渡すまいとして、自分なりの技法や理論は隠すものだけれど、篠房さんはバトンを受け取りやすい位置に置いてくれている気がします。
■マンガ家とイラストレーターは似て非なるもの
――感覚派と仰っていたさいとうさんは、リアリティのあるイラストを描く上で何を重んじているのですか?
さいとう:篠房さんは人体を“構造”として見ている印象が強いんですが、ぼくは“あるある”を重視しています。たとえば、おばあちゃんを描くとき、「おばあちゃんってこういうシルエットだよね」というイメージを掴んでいくというか……。
篠房:おそらく、さいとうさんは視覚的な記憶能力が高いんだと思うんです。目に入ったものを記憶し、そのまま描けてしまう。だからアウトプットしたときに、“あるある”と感じてもらえるんでしょうね。でもぼくは視覚的な記憶力が悪くて、まったく覚えていられないんですよ。だから理論派になってしまった。描きたいポーズを映像として記憶していなかったとしても、理論と照らし合わせれば再現できますからね。
さいとう:いやぁ、ぼくもすぐ忘れちゃうんですけどね(笑)。ただ、街中で出会った人が素敵な仕草やポーズをしていたとしたら、「なるほど、こうやってひねっているんだ」「手首はこんな感じなんだ」とまじまじ見てしまう。もしかすると観察する習慣は、他の人よりも身についているかもしれません。篠房さんは、日常生活のなかでどのようにアンテナを張っていますか?
篠房:あまり外出する機会がないので、その分、映像資料をたくさん見て、脳内スケッチしていますね。そういうとき、YouTubeって便利だなと思います。アクションシーンの参考になるような映像もたくさんありますしね。
さいとう:なるほど。この本のなかにも、歩きや走りといった動作にまつわる定理が解説されていますよね。これはぼくにはない視点だったので、面白かった。
――さいとうさんはあまり動きを意識されない、ということでしょうか?
さいとう:イラストレーターって決めポーズを描くことが多いので、そのポーズの前後、つまり描こうとしてる人物がどう動いているのか、時間軸で捉えないんです。
篠房:たしかに、歩いているポーズを描くとしたら、両手両足をピッと開いているポーズになるでしょうね。まさに今「歩きはじめた」というような微妙な瞬間を描く必要がない。
さいとう:そう、イラストレーターに求められるのは、やはり見栄えがするポーズなので。ただ、あまりにも見栄えばかりを意識すると、人物ではなくて“記号”になってしまうとも思うんです。だから、ほんの少しずらしてあげるといい。両手両足が綺麗に開かれているよりも、少しだけ曲がっていたりする方が歩いている生っぽさが出ますよね。すると記号ではなく、ちゃんとした人物になると思います。
篠房:同じ「絵描き」とはいえ、マンガ家、イラストレーター、アニメーターとでは、描けるものが異なりますね。
■「絵のうまさ」だけに頼るのは危険なこと
――イラストの世界って、ときには「ヘタウマ」と呼ばれるような味のあるものが評価されることもありますよね。だからこそ奥が深くて豊かなカルチャーが育まれているのだろうなと思うのですが、プロからするといかがですか?
篠房:皆がいつでもうまくて手の込んだイラストを求めているわけじゃないですからね。短時間でシンプルに描き飛ばしたものの方が勢いがあって、むしろ見た人に強いインパクトを残して、長くバズり続けたりもしますからね。
さいとう:技術云々ではなく、作家性が評価されているとも言えますよね。極端に言えば、その作家が丸を描いただけで評価されるような。それが一番価値のある状態だと思います。でも、ぼくはまだそこには到達できていません。まだうまさに頼ってしまっている……。
篠房:絵のうまさに頼るのって、怖いことでもあります。それだけに頼ると、ランキングのトップに君臨していなければいけないという強迫観念にも囚われてしまいますし。だけど本当は、ランキング外にも価値のある人たちは存在する。だから、いかに「うまさの勝負」から逃げるか、が若い頃のぼくのテーマでした。これは美大生あるあるなんですけど、高校までは「学校一絵のうまい人」だったのが美大に入ると、大半の人がそのアイデンティティを喪失して迷走してしまうんです。ぼくはこんなランキングには付き合いきれないなと思って色々試してマンガを描いたりしてランキング外の世界へ逃げたんです。マンガの世界なら絵のうまさだけがすべてではないですし、培ってきた技術も一応使えるわけで。
さいとう:なるほど。もちろん、ランキングで戦うのも必要なことではあると思います。ぼくにもそういう時期がありましたし。でも、やがてそこから逃げたくなり、どうやって戦うのかを模索するようになるんですよね。
篠房:今の人たちは詳細な自分の絵のランキングがSNSによって全世界に周知されるようなシステムとも向き合うことにもなるので、それをあまり気にしすぎると病んでしまうと思います。
――そうやって一度はポキっと折られて、自分の道を模索しはじめる。他者との比較によって自分の現在地を知る意義は、すべての職業に通ずることかもしれません。
篠房:そうですね。それと、これは絵描き特有のことかもしれませんが、“過去の自分”と今の自分とを比較することもあります 「5年前の絵をじっくり見せてください」と言われたら悶絶するくらい恥ずかしいんですけど、それはつまり、そのときよりも今の自分が進化しているからでしょう。逆に、過去の作品を見ても「今よりいいじゃん」と思ってしまったら、作家としては危険ですよね。ただ、ベテランになればなるほど、絵が劣化してしまうというのは珍しい話ではないんです。というのも、売れっ子になればなるほど速く描くことが求められる。その結果、トータルのバランスが崩れ、立体感のない絵を量産することにもつながりかねない。
さいとう:忙しいから細部にまで拘っていられない、という状態ですね。でも、それに抗うために“理論”が役に立ちそうです。
篠房:そうなんですよ。なるべくいつまでもバランスのいい絵を描きたいと思ったからこそ、ぼくはポーズについての理論をまとめたんです。それさえ頭に入れておけば、忙しくても多人数で仕事をする時にも最低限のクオリティが担保できますから。感覚は自分の絵の最高点を更新してくれて、理論は自分の絵の最低点の更新を阻止してくれる働きがあると思います。
さいとう:篠房さんは真面目だから、絵の描き方を数値化、理論化して、感覚が損なわれても再現できるようにしようとしているんでしょうね。ぼくは不真面目だから、いつか技術が衰えてきたら、「さいとうが描く絵は、なんかよくわからないけどエモいよね」と評価してもらう方向に行けないかなって考えています(笑)。
篠房:アーティスト寄りの立ち位置ですよね。ぼくは商業作家だから求められるものを一定のクオリティで仕上げ続けなければいけないですし、これから先もきっとそう。職人に近いのかもしれません。だからこの本は、天才はターゲットにしていないんです(笑)。天才には好きに描いてもらって、そうではない人たちが上達するための一助になればな、と。
さいとう:そうやってうまくなろうと頑張っている人たちに対して、「うまさに頼るな」なんて話してしまいましたけども……。
篠房:絵の世界って弱肉強食ではあるけれど、生存戦略はいくらでもあります。ライオンのような捕食者にならずとも生きていける。ハイエナのようになったっていいし、ネズミのような繁殖力で膨大な量をこなす作家になったって構わない。
さいとう:そのためにも、まずは理論を身につけるのがオススメですね。
取材・文=五十嵐 大