カメラマンが語る、とある出版社の編集長の話/澤村伊智「高速怪談」【全文公開④】
公開日:2022/8/12
『ぼぎわんが、来る』の澤村伊智氏による、小説の形をした怪談集『怪談小説という名の小説怪談』(新潮社)。
子連れで散歩中に見かけた怪しげな物件、語ってはいけない怖い小説、新婚旅行で訪れた土地での出来事…など、暑い夏の夜にゾクゾクする珠玉の7編を収録。
本連載では、「高速怪談」を7回に分けて全文公開! 関西方面に向け、乗り合わせて帰省をする男女5人。ひょんなことから車内で怪談会がはじまって…。ラストまで見逃せない傑作短編。
真柄さんの話
ぴ、と近くで音がした。真柄さんがハンドルに並んだボタンから指を離すと、
「はいはい真柄ですよ」
と前を向いたまま答えた。高鳴っていた鼓動が収まり始める。
〈すみません、宇都宮ですー〉
ひょうきんな声が車載スピーカーから聞こえた。僕はダッシュボードに置かれた真柄さんのスマホに目を向ける。液晶には〈通話中 宇都宮浩〉と表示されていて、スマホ本体とシガーライターソケットがアダプタで接続されていた。
真柄さんは車のハンズフリー機能を使って電話を取り、通話しているのだ。
〈申し訳ないです、ドタキャンしてしまって。今現場終わりました〉
宇都宮さんなる人が関西訛りで詫びる。
「お疲れ様ですー。お気になさらず。いま伊勢湾岸道」
〈堀くんと合流できました?〉
「うん」
真柄さんはちらりとルームミラーに目を向けた。僕は振り返る。堀さんがにこやかな顔で手を振っているのが、暗い中に見えた。
〈よかった。何か手違いとか、トラブルがあったらと思って〉
「全然。楽しくやってるよ。明日も現場?」
〈そうなんですよ。六時に新宿東口のヨドバシカメラ前〉
「寝られへんやん」
時計は三時過ぎを示していた。
何の仕事か知らないけれど大変だな、と思いながら僕はシートにもたれていた。真柄さんはしばらく話すと「ほなねー」と通話を切った。すぐに「せや、澤口くん」と僕を呼ぶ。
「はい」
「割り勘の話あったやん。五千円せんってやつ。あれちょっと話変わった」
「……あ」
僕は気付いた。最初に誘われた時の話と、今の状況には齟齬がある。
「今の――宇都宮さんが不参加になったんですね」
「そう。せやから五人で割り勘せなあかん。五千円オーバーになる。ごめんな」
「いえ、全然」
素直にそう答えた。
「それでもバスより安いですし、ご飯も美味しいし夜景も見られるし、話も楽しいですし。思わぬ流れで漫画家さんのネーム会議もできますし」
「はは、そらどうも」真柄さんは笑った。石黒さんが「いやいや、帰ったら自分でやるよ、仕事やし」と慌てて言う。
真柄さんがダッシュボードに手を突っ込んだ。煙草のケースを引っ張り出すと、
「参考になるか分からんけど」
ハンドルを摑んだまま器用に一本引き抜いて口に咥え、
「駆け出しやった頃、とある出版社と仕事したんよ。もう倒産したけど。単発のグラビアムック。アイドルたちが水着でってやつ。そのうちの一人の子を撮ってん」
ライターで火を点けながら、ウィンドーを少し開けた。
「朝から夕方まで九十九里浜で撮って、その日のうちに現像所に出して、上がったら編集部に配送するように段取りしてんけど――あ、澤口くんは知らんかな。フィルム」
「一応、知識としては」
「そういう世代かあ」真柄さんは大げさに言いながら紫煙を吐くと、「まあ、それで編集部に納品したわけよ。そしたら何日かして担当編集から『すぐ来てくれ』って電話があって」
「おっ、しんれ……」
石黒さんが途中まで言って黙った。ぺちん、と叩く音がしたのは、汀さんに二の腕かどこかを叩かれたからだろう。先にオチを言うな、と。
「まあまあ」
苦笑しながら真柄さんは、
「そんで俺、めっちゃヘコみながら出版社のビル行ったんよ。現像ミスったかなーとか思いながら。そしたら編集部が全員でライトテーブル囲んでて」
僕は心の底から後悔していた。ネーム会議などと言ったばっかりに、真柄さんまでこの手の話をしている。シートベルトが妙に身体にまとわりつき、息苦しさすら覚えていた。煙草のにおいのせいだ、と頭の中で自分に言い聞かせる。
「編集長が俺に気付いて、『お前か! これ撮ったのは!』って物凄い剣幕で言いよってん。ぱっと見ヤクザの人がぐわーって青筋立ててんの。そんな状況やったら『あ、これ完全にやってもうたな』ってなるやん。もう泣きそうになって『はい』って答えたら」
真柄さんは深々と煙草を吸うと、
「がしーって胸倉摑まれて、そのままライトテーブルまでがーって引きずられて、『見ろ! 心霊写真だ!』って」
ぺちん、とまた音がした。石黒さんがボソボソと何やら囁いている。僕はふう、と安堵の息を吐いた。石黒さんの横槍のおかげで心の準備ができていた。これから真柄さんはどんな心霊写真かを説明するだろう、と予測もできていた。
真柄さんはここで不意に笑みを浮かべると、
「『これも! これも! これも!』って編集長がポジフィルムを次々指差しながら言いよって。俺そこでハッて冷静になってん。『複数の写真に写ってるんやったら、心霊ちゃうんとちゃうか? 単なる物体がそれっぽく写ってるだけちゃうか?』って。そんでフィルムに顔近づけてよう見てみたら――」
間を取って、静かに、
「何もなかった」
「は?」汀さんが訊く。
「霊っぽい物は何も、どっこにも写ってなかった。水着の女の子が波打ち際でポーズ決めてるだけ。どんだけ目ぇ凝らしてもふっつーの写真やった。変な写り込みも、二重露光も、光の加減で『顔っぽく見える』とかも一切なし」
「どないなっとんねん」
「俺もそう思たわ」真柄さんは煙草を灰皿で揉み消すと、「キレまくってる編集長に当然訊きたなるわな。真正面から向き合って訊こうとするわな。そしたら後ろからガッて肩摑まれて。副編集長やったと思うけど、その人がこう、ゆーっくり首振ったんよ。『分かってる、何も言うな』みたいな諦め切った顔で」
とととん、と足元で音がした。僕の両足が勝手に震え、踵が床を鳴らす音だった。両手で膝をぐっと押さえる。
「編集長に『だけ』見えとったんや」
真柄さんは両手でハンドルを握った。車内はしんと静まり返っていた。かすかな揺れとエンジン音が身体を伝っている。
「それから俺も編集部員も、みんな黙って編集長の訳分からん説教聞いとったわ。一時間くらいかなあ。怒りが治まって『打ち合わせに行く』とか言うて編集長が出て行ったら、全員が一斉に『すみませんでした!』って俺に平謝りして」
真柄さんはルームミラーを一瞥して、
「『たまにああなるんです』『一回なったら止められないんです』って説明されて。『わけ分からん』とか思いながらそん時は帰ったんよ。『頭おかしいねんな』『あんなんが上司で大変やな』とか、それなりに納得もして。そしたら次の年――その編集長、覚醒剤でパクられよってん」
と言った。
「そのオチかあ」
石黒さんが呻くように言った。汀さんが「まあ、クスリはね」と納得したような呆れたような口調で囁く。
僕はぐったりとシートに身体を預けた。心臓がどくどく鳴っているが心は何とか落ち着いていた。真柄さんの話も科学で説明できなくはない。出版業界でこの手の話は聞かなくもない。
「いわゆる心霊体験と、薬物による幻覚が類似する、というケースはままあるようです」
堀さんの声がした。
「というより、心霊体験として報告されている話のほとんどが、実際はそうした薬物による幻覚だと考えた方がいいのかもしれませんね」
言葉の一つ一つが腑に落ちる。そうだ。実際は霊などいないし、心霊体験などあるはずもないのだ。すっかり固まった身体を伸ばしていると、
「そう来ると思ってました」
真柄さんが嬉しそうに言った。
「というと?」堀さんが訊く。
顔から笑みをスッと消すと、真柄さんは、
「実はこの話、続きがあるんですよ。ていうか話す順番を入れ替えたんですけど」
首を手で押さえて鳴らしながら、
「俺が何でこの場でこれ思い出したかっていうとね、その編集長がこんなこと言うてたからです。何回も何っ回も。『ピアス付けて白目剝いた女が、笑いながら海から顔出してる』って」