仏像を眺める/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人⑪
公開日:2022/8/12
周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!
万引きをした少年がスーパーのバックルームの椅子に座っている。「中学生だから、警察と学校には連絡しないけど、親には連絡するね」と店長らしき初老の男性は述べたきり、少年に話し掛ける素振りは見せなかった。少年は仲間達と根性試しをしようという話の流れから愚かなことをした。誰かに強要されたわけでもない。
少年は黙って唇を噛み締めていた。万引きをしたことなんて無かったから、悪事の最中ずっと少年の手は震えていた。今日、少年の母は遅番だから家にいないはずだった。誰が迎えに来るのだろうと思案する少年の表情は暗い。父だと最悪だ。きっと殴られるだろう。だが、祖母だともっと最悪だ。祖母が謝る姿を見ると胸が痛む。
「こんにちは。梶山です。この度は申し訳ございません」という聞き慣れた声がドアの向こうから少年の耳に届いた。祖父の声だった。祖父と店長がなにやら話し込んでいるが、内容はよく聞き取ることができなかった。繰り返し祖父が謝っていることだけは伝わった。
少年は聞き耳を立てながら時間が過ぎるのを待った。同時にこの後のことを考えると、この時間が永遠に続くことを願った。
バックルームに入ってきた祖父は少年に、「帰ろうか」とだけ声を掛けた。少年は返事をせずに席を立った。
「今度はお客さんとして来てね」と店長は少年に優しさを見せたが、少年は応えなかった。
少年は来れるわけがないと思った。少年が次にこのスーパーを訪れるのは七年後のお盆のことだ。親戚が集まる時間までに線香が必要で、ここしか思いつかなかったのだ。
万引きをした後、スーパーからの帰り道、祖父はほとんど話さなかった。祖父の白い半袖のシャツが夕陽によってピンクに染められていた。
「ちょっと散歩して帰ろう」と、つぶやいた祖父の少し後ろを少年は無言でついていった。なんとなく祖父が踏んだ場所を意識して踏んでいたら自分の歩き方が変になったので、途中からは普通に歩いた。
祖父はお寺の門で一度深々と頭を下げて、境内に入った。少年もその後をついていった。
子供の頃から何度も寺の門の前は通っていたが、中に入るのは初めてだった。
そんなに大きなお寺ではなかったが、庭も本堂も清潔で美しかった。本堂の中に入ると自分の体温が一気に下がったような感覚になった。静かだからこそ、境内の蝉の声がよく聞こえた。本堂の中央には一体の仏像があった。大きな仏像では無かったが、明度の低い本堂の中の僅かな光をすべて集めて輝いているように見えた。
祖父が、「千手観音様だよ」と少年に教えた。少年は祖父の真似をして千手観音に手を合わせた。
少年が目を開けると、祖父はもう頭を上げていて、千手観音を静かに眺めていた。
そして祖父は、「これだけ手があったら万引きし放題だな」と少年の耳元で囁いた。
その言葉を聞いた時、少年は祖父にこの言葉を言わせたのは自分だという責任を強く感じた。
祖父は少しだけ悪いことをして、自分を楽にしようとしているのだと少年は解釈したが、祖父の真意は分からなかった。
翌日、少年は学校で事の顛末を仲間に語る時、祖父が千手観音を眺めながら囁いた言葉を面白おかしく伝えたが、その時も少しだけ胸が痛んだ。
[余談]
先日、仏像を眺めている時に、ここまで辿り着いた人は平等に仏像を拝むことができるけれど、ここに至るまでの道のりはそれぞれ全く異なるのだろうなと思った。そんなことを考えていたら、仏像と出会うまでの流れを幾つか考えてみたくなった。
箇条書きにするはずが、書き始めると長くなってしまったので、一つの物語だけになった。
(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)