バービー「『私の価値を決めるのは私』にグッときた」×ブレイディみかこ「貧しいから、女の子だから、守ってあげたくなるなんて描き方には絶対したくなかった」
公開日:2022/8/16
100万部突破のベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(ぼくイエ)』の著者・ブレイディみかこさんが、ノンフィクションの形では書けなかったという、14歳の少女の「世界」を描いた小説『両手にトカレフ』(ポプラ社)を上梓した。作品を通して、社会に声を上げ続けるブレイディさんと、生きやすい社会をつくるために様々な問題に目を向け活動するバービーさんの対談が実現した。混沌とした今の時代だからこそ、お二人の言葉がやけに響く。
(取材・文=立花もも 撮影=干川修)
バービーさん(以下、バービー) 『両手にトカレフ』を読んで、自分が失いかけていたものを取り戻したような気持ちになりました。今でこそ、私は恵まれた人間ですという顔をして堂々と生きているけれど、もともとは世の中に対する憂いばかり抱えていたし、大人を素直に信じられずにいたし、屈折していたところもたくさんあったよなあ、と。主人公のミアほど追い詰められてはいなかったから、立場としてはたぶん、友達のレイラに近いんだけど、読みながら「この子は私だ」って共鳴する部分がたくさんありました。
――14歳のミアは、薬物依存の母親にかわって幼い弟を育て、貧困ゆえにさまざまな機会を奪われている少女です。どのあたりに、共鳴したのでしょうか?
バービー 〈いくつも夢物語を想像して拵(こしら)えては、そんなことは現実には起こるはずないと思っていた。そのくせ、私は心のどこかで待っていたのだ。いつか必ず、こことは違う別の世界に行けると信じていた〉という文章とか……。私も10代のころは、ここではないどこかに行きたい、こんな場所にいてたまるか、って強く願いながらも妄想だけで終わってしまう時期が続いたよなあ、って思い出しました。だけど今、そのとき妄想していたよりもずっと可能性の広がる場所に立てているから、読みながら「大丈夫だよ」って伝えたいような気持ちにもなったり。昔の自分と今の自分を行き来しながら、いろんなことを考えました。
ブレイディみかこさん(以下、ブレイディ) すごく嬉しい感想です。私もバービーさんのエッセイを読ませていただきました。思春期って、こんな世界は滅んでしまえと願うほど、憎しみに近い感情も抱くけれど、社会のしくみが変わっていくのとはまた違う形で、自分自身の手で変えていくことができるのだというバービーさんの想いが、エッセイから伝わってきて、この小説とも通じるところがあるなと思いました。
バービー 私も嬉しいです。ミアが〈私は私だ。私の価値を決めるのは私。〉と思うところにもグッときました。私も、言いそう(笑)。自分ではない誰かにジャッジされたくないし、誰かの基準で自分が上か下かなんて決められたくないというのは、ずっと思っていたことなので。
ブレイディ 私も、その文章がいちばん私っぽいと言われます(笑)。物語としては、暗くてキツい展開が続くので、随所に「私は私なんだ」という想いをしっかりちりばめたかったんですよ。貧しいから、女の子だから、かわいそうで守ってあげたくなるなんて描き方には絶対したくなかった。ミアのクラスメート・ウィルは、それなりに恵まれた家庭に育った、学校でもわりと人気のあるタイプの男の子。そんなウィルに「クールじゃん」って思われるミアでいてほしかった。実際、ミアのような境遇にいる子たちはタフなので、簡単に同情させてくれない強さがあるんですけどね。
バービー おっしゃるとおり、ミアにラップを書く才能があると気づいたウィルが、対等な存在として手を差し伸べようとする、という関係がめちゃくちゃよかったです。ああいう、魂が共鳴しあえるような人に、みんな出会えたらいいのに、って。
ブレイディ さっきおっしゃってくれたレイラとか、幼なじみのゾーイとその母親とか、ミアのまわりには女性も多いので、シスターフッドの物語として描くことも可能だったと思うんです。でも私には、男の子にも助けてほしいなという気持ちがあったんですよね。〈両手にトカレフを握って立つ君を、トラックで支援する。必要なときには、君の後ろからリボルバーだってライフルだって撃つ〉というウィルのセリフを書きましたが、そういう男女の関係もアリなんじゃないかなと思うので。
ジェンダーフリーというのは、男性性・女性性を徹底排除することではなく、男だから・女だからかくあれ、と規定された役割の概念にとらわれない、固定概念の抑圧に支配されないということ。ジェンダーが何であろうが互いに自分らしくあろうとすることで、人と人として、純粋に手をとりあうこともできるはず……という思いを表現するには、ミアが男の子にも救われる必要があるなと思いました。最近、バービーさんもSNSで「男性パートナーに高収入を望みますか? 結婚やお付き合いするとき、男性の年収は重要ですか?」というアンケートをとっていましたよね。
バービー とりましたね。Twitterだと「できれば同じくらいの年収で、対等でありたいけど、世の中のしくみとしてなかなか難しい」という方が多くて、インスタの場合は「あたりまえじゃん、年収が高いほうがいいに決まっている」という方が多かったですね。その差異も含めて、おもしろかったです。私はあんまり「こうあるべき」と考えることが少なく生きてきたので、だからこそ「私は私」と当たり前のように言える私の言葉を求めてくださる方が多いのかな、とも思います。
ブレイディ その規範から自由になるために生まれたはずのフェミニズムにすら「こうあるべき」がいろんな形で蔓延しているなというのを最近は感じます。だから、SNS上でも、とかく議論が大きくなる。私が今作をシスターフッドの物語にしなかったのは、そうした対立を避けたかったからでもあるんです。女性同士が連帯して男性をやっつける、という構図にどうしてもなりがちだから。お互いに助け合って、少しでもみんなで幸せになるために生きるにはどうしたらいいだろう、意見や立場の違う相手とどういう関係を構築することが必要なんだろうというのは、常々考えていることですし、バービーさんの文章からもそうした姿勢を感じます。
バービー 確かに、枠組みから自由になるというより、新しい枠組みをつくろうとしている風潮は感じていますね。なぜだろう? と考えたとき、マジョリティになり変わろうという気持ちがあるからなんじゃないか、と思ったりもします。マイノリティだからと虐げられてきた経験は、「私は私」という矜持を育ててくれるものではあるけれど、恨みや嫉妬が先走って「自分たちがマジョリティ側に立ってやる」という意欲を持ってしまう人も、いる。それが本当の目的ではなかったはずなのに、と淋しい気持ちになることはありますね。
ブレイディ 数の論理に、いつのまにか自分たちも飲み込まれてしまうんですよね。日本の現状を批判するときに「海外ではこういうのが主流だ」とか「イギリスの新聞にはこう書かれている」と他者を論拠にすることがありますが、それも同じだなと思います。
バービー 難しいですよね。できるだけ、学んだことは正しく生かしていきたい。でも、せっかく得た知識を見せびらかしたい欲は私にもありますし「あの人がこう言ってたから」と知識に笠を着るようなことをしてはいないだろうか、というのは気をつけているところです。私の場合、浅く知識を得たときほど、その傾向が強くなる気がする。ひとつ得た知識を、さらに深く学んでいくことができれば、もっと自由に生かすことができるようになるのかもしれないですね。
ブレイディ バービーさんの文章でおもしろいなと思ったのは、仏陀の言葉が引用されたかと思えば、こんまりさんの名前が飛び出したりする。その縦横無尽さって、なかなか真似できることじゃないと思うんですよ。学べば学ぶほど「これとそれは同列ではない」とか変に縛られてしまうだろうから。そういう意味で、バービーさんはすごく自由で、理想的な学び方をしているんだろうなと感じます。
バービー 無知なだけのような気がしますが(笑)。
ブレイディ 大事なことだと思います。言葉ってやっぱり、胸の内を吐き出すものだから。そこで何かに、たとえば「枠組み」とかにとらわれてしまうと、いずれ自分が出せなくなって苦しくなってしまう。『両手にトカレフ』というタイトルは、銃のかわりにラップ(言葉)で世の中と戦おうとするミアの想いをあらわしたものですが、人と交流するにもやっぱり言葉が必要で、いかにちゃんと伝えるための手段に変えられるか、は、どう生きていくのかにも関わっていくような気がします。
コンプラ的に正しい言葉だけを使うと、ニュアンスも限定されて、伝わるべきところに伝わらない
――言葉は、戦う武器であると同時に、人を傷つけてしまいかねないものだと思いますが、お二人が言葉を使うときに気をつけていることはありますか?
バービー 私は、文章を書くときは「伝えたい」という思いが先行するので、わりと書きたいことを書いていると思うんですけれど、映像のときは、それが誰かを傷つける凶器となっていないか、かなり気をつけて言葉を選んでいますね。映像だと、表情でニュアンスを和らげることはできる一方、読もうという意思が必要とされる文章と違って、誰がどんな状況でそれを目にするのかわからない怖さがあるので。
ブレイディ 切り取られる怖さもありますよね。文章も、前後の文脈を排除して、真逆の文意として出回ることもあるので……。過去に書いた作品の復刊や文庫化の際には「今の時代、この言い方は絶対アウト」というものもやっぱり見つかります。ただあまりに修正を重ねていくと「これは本当に私が書きたかったものだろうか」と疑問が浮かぶこともある。意図せず炎上したり、誤解されたまま評価を決めつけられたりするのはとてもつらいけれど、そのおそれによって自分の言葉を曲げないようには気をつけています。自分の価値を自分で決めるための言葉を発することができているだろうかと自問自答することは、常に必要なことですね。
バービー 『両手にトカレフ』で多数引用されている金子文子さんの文章には、今の時代にはそぐわない表現もあるけれど、ちゃんとそれも注釈を入れて、そのままにしてらっしゃいますよね。コンプライアンス的に正しい言葉だけを使うと、ニュアンスも限定されて、伝わるべきところに伝わらないという難しさもあります。もちろん、その言葉を使わずに表現する方法を探るのも、仕事のうちとは思いますが。ちなみに先ほど、シスターフッドにしたくなかったとおっしゃっていましたが、ミアは金子文子の本を読むことで、彼女を空想上の相棒にしますよね。なぜ金子文子だったんですか?
ブレイディ 『女たちのテロル』という本を出したときにも彼女をとりあげたんですが、アナキストとして自分の人生を歩み始めてからの話しか扱っていなかったんですよ。でも、彼女の思想形成には、その生まれ育ちによる経験が大いに関わっていたはず。そして彼女が自殺を思いとどまった経験は、何より重要なターニングポイントだったはず。戸籍がないために義務教育を受けることもできず生きてきた彼女が、人生に絶望しきって、死ぬために川辺に立っていたのに、夏空に逞しく響き渡る蝉の声を聞いた瞬間、世界がまるで違って見えて生きようと思えた――かつてその描写を読んだときはどういうことなのか理解できなかったけれど、状況は何も変わっていないのに一瞬で別の視点を得て世界を変えることができた彼女の想いを映し出すことができれば、ミアがその先を生きていく希望も描くことができるんじゃないのかなあ、と。
バービー 金子文子が立っていたのは朝鮮の土地だけど、なぜか作中で描写される自然に、私の地元に近いものを感じたんですよね。ものすごく印象に残ったシーンだったので、今日は、その青空をイメージした洋服を着てきました。
ブレイディ ああ、ほんとだ! 嬉しいです。
バービー ミアは金子文子と同じ時代を生きているわけではないけれど、魂が繋がるような感覚を得ましたよね。この小説を読んだあと、金子文子についていろいろ調べて、『金子文子と朴烈』という映画も観たんですけれど、大正期の社会活動家たちはまさに「私は私」という信念のもと、思想を燃やし、その思想で繋がる、共鳴できる仲間を得て生きていた。私もそういう仲間を欲しがるタイプなので(笑)、ものすごく感化されました。生まれ育った環境や性格が違っても、この人がいるから生きていけるし、命をささげることができると思える情熱が芽生えるのって素敵だな、と。
ブレイディ 今の時代には暑苦しい感覚かもしれないけれど、そういうものがあったほうが人間は強くなれるんじゃないかと思いますね。
バービー 一方で、シスターフッドもそうなんですけど、他者の連帯は「無敵の人」と呼ばれる人たちを生み出しかねないことでもあるな、というのを感じていて。マイノリティの中でさえ、誰とも繋がれない、はじかれてしまった人たちが、事件を起こすのを見聞きするたび、どうすればいいんだろうかと考えます。もちろん罪を犯したことは、どんな事情があれ許されないことだけど、その土壌をつくらないためにはどうしたらいいのかな、と。詰め寄るだけでなく、想像力を働かせることをしていかないと、ますます生きるのが苦しい人が増えてしまう気がして。
ブレイディ その想像力を、バービーさんはすでに十分お持ちだと思います。「私は私」という姿勢を貫きながら、それを誰かに押し付けるようなことは決してなさらない。それこそ仏陀の言葉もこんまりさんの言葉も等しく受け入れるように、柔軟性もお持ちでいらっしゃる。シンパシーは「かわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して抱く感情」で、エンパシーは「自分とは異なる思想や信条を持った人、かわいそうとも思えない立場の人たちの感情や経験を理解する能力」のことだと『ぼくイエ』で書きましたけど、誰かと対話するうえで大事なのは「伝える」ことと、そして「聞く」こと。個人的な感情として許せないと思う事件があったとしても、相手の立場になってその事情を理解しようと想像してみる、それもまた「聞く」ということです。そういう人が一人でも増えると、「無敵の人」の事件も減るかもしれませんね。
バービー そうですね……。事件を起こしてしまう人のまわりには、ちゃんと話を聞いてくれる人がいなかったのかもしれない、とも思いますね。
ブレイディ ちなみにバービーさん、小説は書かないんですか?
バービー 書きたいという憧れはあるんですけど、憧れが強すぎて……。『俺はまだ本気出してないだけ』という映画(マンガ)がありましたけど、まさにそのタイプです(笑)。「今度こそ書くから一週間誘わないで」と友人に宣言したのに、けっきょく何もせずに過ごしたり。エッセイを書きながら「この流れに乗って走れば書けるんじゃないか?」と思えることもあるんですけど、乗らないんですよねえ(笑)。ブレイディさんは、また小説を書くご予定はあるんですか?
ブレイディ 今、まさに連載しているのがあるんですけれど、実話に基づいたお話なんです。もともとはノンフィクションで書こうと思っていたのですが、コロナ禍で取材ができず、小説にするしかなくなってしまった(笑)。でもそれくらいのとっかかりでいいんじゃないかと思ったりもします。身構えて書くと、なかなか始められない。なんて言うと、小説を舐めるなって言われちゃうかもしれないけど、少しくらい舐めてるくらいのほうが、勢いよく走りだせるんじゃないでしょうか。
バービー それは、すごく背中を押されます(笑)。『両手にトカレフ』も、フィクションだけど、現実と地続きの作品ですもんね。作中に、1ポンドで食べられるディナー・ビュッフェを週に2回、提供するカフェが登場するじゃないですか。そこにさえ行けばミアもおなかいっぱいごはんが食べられる。あれを日本でもやれないかなあ、って思いました。フードバンクをやるにしても、条件がすごく厳しいんですよね。生ものが余ってるんだけど、誰かに食べてもらえないかな、と思ったときにどういうシステムを構築すると、困っている人たちにもいきわたるんだろうとか、今、いろいろ考えていて。
ブレイディ ああ、すごくいいですね。日本にも子ども食堂はあるけれど、本当に困っている人ほど行きづらかったりしますし、大人は行っちゃいけないのかと躊躇してしまう。カフェ、って名がついたほうがフランクだし、無料は確かに助かるけど、百円でもお金を払った方が、垣根が低くなることってあるんですよね。たくさん払える人は払ってくれていいわけだし。
バービー 私、地元創生に関わっているんですけれど、子ども食堂の創設を提案したら「貧乏だと思われたくないから来ないと思います」と言われました。かわいそうだと思われたくない、とミアも思っていたけれど、上から目線で誰かを助けようというのではなくて、おっしゃるように、もっとフランクに人と人とが繋がって支えあうことのできるしくみを、つくれないかな……と、この小説を読んでますます考えるようになりました。そういう意味でも、一人でも多くの人に、この小説を読んでもらいたいですね。