【新海誠の文学世界】――過去4作の小説で表現された「大丈夫」という言葉の存在/②『小説 言の葉の庭』
公開日:2022/9/7
世界中のあらゆる人と人の間で起こっているコミュニケーションの本質にあるものは、「大丈夫」を送り合うことではないだろうか。おもに言葉で、それから表情や態度で、「私は大丈夫」「あなたも大丈夫」と励まし合うことで、本当は「大丈夫」ではなかったりする日常生活の礎を築こうとしているのではないか。アニメーション監督である新海誠はみずからの手で、最新作『すずめの戸締まり』の前に4作品を小説化してきた。この4つの小説には、重要な場面で「大丈夫」が顔を出す。その一語の表現の仕方に注目しながら、本稿では『小説 言の葉の庭』(新海誠/KADOKAWA)をレビューしていく。
小説的マジックがさまざまに振り掛けられた一作だ。元は46分間のアニメーションだったが、小説はなんと400ページものボリュームになっている。アニメから引き継いだバリエーション豊富な「雨」の表現は小説でも健在で、物語の着想のきっかけとなった『万葉集』など文学作品からの引用もふんだんだ。しかし、何よりボリュームアップしているのは、群像劇へと変貌したドラマだ。
5月の雨の日、高校1年生の秋月孝雄は、学校をサボって出かけた新宿にある国定公園で、スーツ姿でビールを飲む雪野百香里に出会う。ふたりは雨の降る日が来るたびに、公園の小さな東屋で会話を交わすようになる。孝雄は靴職人になる夢を持っていることを語り、雪野は人生につまずき「上手く歩けなくなっちゃった」ことを告白する。惹かれ合うふたりの関係は、ある秘密が明らかになることで決定的に変化する。
アニメはこのふたりの関係にフォーカスしていた。小説でも、あの台詞にはこんな思いが潜んでいたのか……と孝雄と雪野の心情描写が深まっている。そのうえで、章ごとに主人公=語り手が代わる全10話の連作短編形式を採用し、アニメではほんの少ししか登場していなかった登場人物達に光を当てている。最大の驚きは、体育教師の伊藤、および女子高生の相澤の章だ。アニメでは悪役の立ち位置だったふたりにも、他人からは窺い知ることのできないそれぞれの事情があった。
特別な重みのある「大丈夫」は、東屋でお弁当を分け合うエピソードの後、うたた寝をした孝雄を見ながら雪野がつぶやく台詞の中に登場する。「私、まだ大丈夫なのかな」。実はこの「大丈夫」は、アニメでは影も形も存在していない恩師・陽菜子先生から、雪野がもらった「大丈夫」と反響している。「大丈夫、どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんやけん」。大人になった雪野は、みずからの身に降りかかった重篤なトラブルを経て〈先生はあの時ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかったのだと、今になって初めて気づく〉。
自分も「ぜんぜん大丈夫なんかじゃなかった」雪野は、東屋で孝雄と出会い、夢に向かってまっすぐ進む彼と会話を交わすことで、少しずつ心を回復させていった。孝雄もまた大それた夢を不安混じりで語った時、雪野がきっと叶うよといった安易な言葉を繰り出さず、〈彼女がただ微笑んでくれたということが、どうしてかたまらなく孝雄の心を励ました〉。その言葉自体は一度も使わずに、ふたりは「大丈夫」を送り合っていたのだ。小説のエピローグでは、アニメのラストでは語られなかったふたりの「いつか」が描かれる。かつて「大丈夫」を送り合ったふたりがどこにたどり着くのか、ぜひ読んでみてほしい。
文=吉田大助