【新海誠の文学世界】――過去4作の小説で表現された「大丈夫」という言葉の存在/④『小説 天気の子』
公開日:2022/10/5
世界中のあらゆる人と人の間で起こっているコミュニケーションの本質にあるものは、「大丈夫」を送り合うことではないだろうか。おもに言葉で、それから表情や態度で、「私は大丈夫」「あなたも大丈夫」と励まし合うことで、本当は「大丈夫」ではなかったりする日常生活の礎を築こうとしているのではないか。アニメーション監督である新海誠はみずからの手で、最新作『すずめの戸締まり』の前に4作品を小説化してきた。この4つの小説には、重要な場面で「大丈夫」が顔を出す。その一語の表現の仕方に注目しながら、本稿では『小説 天気の子』(新海誠/KADOKAWA)をレビューしていく。
小説は「序章 君に聞いた物語」の、アニメには存在しない一場面から始まる。一八歳の少年は故郷の島を出て、東京に向かっている。不安はあるが、「彼女」のことを思えば心は晴れる。〈そして、大丈夫だ、と思う。彼女がいる。東京で彼女が生きている。彼女がいる限り、僕はこの世界にしっかり繋ぎとめられている〉。
高校1年生の夏、家出をして東京へやってきた少年・森嶋帆高は、須賀という中年男性が営む編集プロダクションで住み込みバイトを始める。先輩ライターの夏美に連れられ「100%の晴れ女」という都市伝説の取材を始めたところ、祈るだけで天気を晴れにする少女・天野陽菜と出会う。連日降り続ける雨空も、彼女が祈ると晴れ渡った。帆高は陽菜の弟・凪も誘い、オファーされた地域を晴れにするビジネスをスタートさせる。
小説は帆高の一人称(「僕」)を基本としながらも、大人の立場から帆高を見守る須賀や夏美、そして陽菜のモノローグが合間合間に挿入され、アニメでは語られなかった彼女たちの内面が詳述されていく。特に、陽菜が晴れ女ビジネスによってひび割れた日常を嘆くのではなく、帆高と出会えた喜びを語るモノローグは印象的だ。〈それは誰のせいでもなく、私自身の選択だった。たとえ気付いた時には引き返せない場所に来てしまっていたとしても──私は君に会えて、本当に幸せだった。もし君に会えていなかったとしたら、私は今ほど、私自身も世界も愛せていなかった〉。のちに世界の形を決定的に変えてしまうことになる「決断」も含めて、彼女は彼の選択に従ったのではなく、彼女自身が選んだのだ。その感触は、映画にはない陽菜のモノローグを採用した、小説だからこそ感じ取ることができるものだ。
陽菜は面と向かって、あるいは心の中で「大丈夫」の言葉を帆高に何度か送る。帆高は〈お願いです。/もう十分です。/もう大丈夫です。僕たちは、なんとかやっていけます。だから、これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください〉と、神様に向かって「大丈夫」を願う。
小説の第12章(終章)のタイトルは、「大丈夫」だ。もちろん、映画のラストシーンで流れた、RADWIMPSの楽曲「大丈夫」を下敷きにしている。巻末に付された新海誠のあとがき、およびRADWIMPSの野田洋次郎の解説で明かされているが、この楽曲の存在が、『天気の子』のラスト3分間に決定的な影響を与えた。サビで「君の大丈夫になりたい」と歌う曲を小説の中で流すことは不可能だが、エピローグの文章ひとつひとつに、その音楽が流れ込んでいる。そして、最後のセリフの中に「大丈夫」が現れる。
世界中のあらゆる人と人の間で起こっているコミュニケーションの本質にあるものは、「大丈夫」を送り合うことだ。気休めではない本気の「大丈夫」を伝えることは、難しい。けれど、相手に伝えることができたならば、あるいは相手から伝えてもらえたならば、世界を肯定する力に繋がる。優れたフィクションは、実在の人物の代わりに、その役目を果たすことができる。「大丈夫だよ」。新海誠のアニメを視聴し、彼の小説を読むたびにどこからかそんな声が聞こえてくるのは、空耳ではないと思うのだ。
文=吉田大助