「本当の犯人は、最後までわかりませんでした」編集者も予想外の結末に! 池井戸潤、待望の最新ミステリ『ハヤブサ消防団』《インタビュー》

文芸・カルチャー

更新日:2022/9/8

池井戸潤
撮影/大槻志保

《この土地こそが、いまのオレが必要としている場所だ。立ち返るべき原点なのだ》。都会暮らしに見切りをつけた作家・三馬太郎が辿り着いたのは、亡き父が晩年を過ごした山間の町。穏やかな田舎暮らしを始めるはずが、なぜか消防団の一員に? そして、一見静かな山里は、分け入れば分け入るほど謎と因縁が深まり……。池井戸潤さん待望の新刊『ハヤブサ消防団』(集英社)は、会社も組織も出世争いも登場しない“田園小説”にして久々のミステリ。新機軸となる異色の作品世界が生まれた理由を尋ねた。

(取材・文=大谷道子)

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作家という観察者から田舎暮らしを見つめてみれば

――池井戸作品としては地方の町という異色の舞台で展開する新作。その誕生の経緯を教えてください。

ハヤブサ消防団
ハヤブサ消防団』(集英社)

池井戸潤さん(以下、池井戸) 以前から田舎を舞台にした小説を書こうと思っていました。ひとくちに田舎といっても、土地によっていろいろ違いはあるのですが、とりあえず自分が知っている身近な田舎を……と考え、僕の実家がある、標高500メートルくらいの山の中の小さな町を舞台に。地形や土地の雰囲気はそのまま生かしているので、ほぼ地元がモデルといってもいいと思います。

――移住者である作家を主人公にするというのも、最初から決めていたことだったのでしょうか。

池井戸 まったく決めていませんでした。田舎の風物を書くにあたって主人公をどうしようかと考えたのですが、小説の読者にはやはり圧倒的に都会暮らしをしている人が多い。となると、田舎で暮らしている人を主人公にしてしまうと、厳しいだろうと……。その土地の人にとっては日常でも、それ以外の人にとっては非日常――そんな事象を表現できないからです。その点、東京からきた作家という、比較的読者に近い視点を持つ人物なら、田舎のよさや都会との雰囲気の違いを無理なく描写できます。昼間から家にいるし、時間の自由もきく上に人間観察が仕事でもある。いろいろな意味で、観察者として――つまり物語のナビゲーター、主人公として具合のいい職業だったんです。

――ミステリ作家の登竜門といわれる《明智小五郎賞》を受賞して30代でデビュー、という三馬のプロフィールは、やはりご自身を想起させます。

池井戸 そう思われるかもしれませんね。でも、僕自身の個人的な経歴は、作品にはまったく反映されていません。それに、作家としての三馬の滑り出しは、僕よりかなりラッキーだと思いますよ。何といっても、最初の小説が売れたんですから! 僕はそうではなかったので、太郎よりは苦労した自覚があります(笑)。ただ、最初の作品が売れてしまうと、どうしても似たようなものばかりを求められてしまう不自由さもある。その点、なかなか売れなかった僕は、いろいろなジャンルに自由に挑戦することができたので、結果的にはよかったと思っています。

地元に生き、地域で働く人の実話をたっぷり盛り込んで

――消防団を物語の主軸に据えたのは、なぜですか。

池井戸 田舎の生活においては、やはり欠かすことのできない組織だから。都会だと表立った活動を目にする機会は少ないですが、地方の、しかも小さな町や村では、彼らは実際に消火活動を行いますし、祭りや盆踊りなどの行事にもしょっちゅう駆り出される。そのことを、地元にいる友人たちからたびたび聞かされてきました。若い頃からその一員として地域で働いてきた彼らから聞いたエピソードは、この作品にたくさん盛り込まれています。

――たとえば、どんな逸話が?

池井戸 消防団の技術を競う大会に出場したとき、ズボンのお尻が破れて笑ってしまって敗退したとか、地元の祭りで横笛を吹く係の隊員がICレコーダーで録音したものを流してズルをしていたとか……。これは創作に違いないと思うようなエピソードほど、実話だったりします(笑)。

――作中、三馬は近所の老人から《何しろ、ここはスーパーナチュラルな場所やでね》と言われます。河童伝説だったり、因縁めいた言い伝えの残る場所があったりと、八百万町では科学では証明できないようなことが普通に存在しているのが、なんとも不思議で魅力的です。

池井戸 小説に書いた、神社の鳥居の前の家が連続して燃えたというのも実話で、僕は父から「絶対に神社の前に家を建てるなよ」と言われてきました。神様の通り道だというわけです。建てたらバチがあたる。そうした一種の超自然現象も、古い土地では当たり前なのでしょう。集落の井戸が山奥の淵につながっているとか、山間の滝壺で死体が上がったときの、ある種滑稽な様子まで、日常生活の延長線上にあるように思えます。こういう小説は、子どもの頃から長く田舎に暮らしてきた自分のような人にしか書けません。親からいろんな伝承を聞き、今も地元にリアルな情報源を持っている。その意味では、書きたい小説であると同時に、書いておかなければならない小説でもありました。

先の見えない物語を読者同様、楽しみながら

――一方、一見平和でユーモラスな八百万町の日常に、次々と怪事件が起こります。連続放火、町民の不審死、そして町に、ある目的を持って忍び寄る人々の存在も明らかに……。平和な地方の町が、知らず知らずのうちに危機に陥っていく様子は、リアルで現代的です。

池井戸 実際に見聞きした話が拠り所となっています。作中の町がそうであるように、現実の町の風景もどんどん変わってきています。先祖伝来の山や畑が二束三文で売り飛ばされ、一面太陽光パネルになる。正体不明の人や団体がいつのまにか広い山を買っている……。果たしてそれでいいのか。この小説は、そうしたことへの問題提起でもあります。

――この小説にはプロットが用意されてなかったそうですね。結末を決めずに原稿用紙数百枚もの物語を書き進めるのは、不安ではないですか?

池井戸 不安ですね。できればそういう心配をせずに書きたい(笑)。でも、プロットを作らず書く小説は、予定調和にもなりにくい。そもそも、書き始める前に、原稿用紙数百枚先もの詳細な展開を予測するのは不可能なんです。少なくとも僕の能力では無理。だからいつもプロットは作りません。たったひとつの言葉や、登場人物がふと見せる意外な表情や行動で、まったく違う方向に転がるのが小説のおもしろいところです。目の前の登場人物を見つめ、「この人ならどう考えるだろうか」「どんな行動を取るだろうか」と丹念に描写していくしかありません。作家にとっての登場人物は、本当に実在している人と同じです。

――作中、三馬が自身の創作について語る場面に《作家にとって一番の仕事は、人の本質を見極めることなのだ》という一文があります。池井戸さんのそうした執筆姿勢ともつながっているように感じます。

池井戸 そんなに注意深く観察しているわけではありませんが……。ただ、登場人物が自然に動くように心がけていくと、不思議にいろいろなことがつながり始め、そうとは意識せずに書いたことが結果的に伏線となって次々と回収されていく。結果的に、自分でも思いもかけなかった結末にたどり着くんです。今回もそうでした。

常に新しく、独自の「大きな物語」を求めていく

――この小説の結末も、やはり予想外でしたか。

池井戸 誰が本当の犯人なのか、最後の最後までわかりませんでした。担当編集者には連載の途中で何度も、「犯人は誰々だ」と伝えていたんですが、話が進むたび、ころころ変わる。連載の最終回を渡してようやく真犯人が明らかになったんですが、やっぱり伝えていた犯人と違いました(笑)。別に嘘を伝えていたのではなく、本当にわからなかったんだから仕方がない。

――新作の出版のほか、映画『アキラとあきら』の公開、『シャイロックの子どもたち』のドラマ化と映画化など、話題作の発表が続きます。今後の執筆予定を教えてください。

池井戸 「週刊文春」誌上で連載中の『俺たちの箱根駅伝』は大詰めです。それが完結したら、前々から温めてきた、歴史上の人物を主人公にしたエンタメ小説に取りかかる予定です。

――また新しいジャンルへの挑戦になりますね。

池井戸 求められるからといって、「半沢直樹」や「下町ロケット」といったシリーズものだけを書いていればいいとは思いません。書きたいもの、試してみたいアイデアやテーマが最優先されるべきで、『ハヤブサ消防団』はまさにその文脈にあります。一方、自分が書ける、あるいは書くべき新しいエンタメ小説とは何なのか。どうすれば、もっとおもしろいものが書けるのか、日々、考え続けています。