文芸評論家・榎本正樹が解説! 最新作『小説 すずめの戸締まり』で小説家・新海誠が辿り着いた「語り」の究極形とは

文芸・カルチャー

公開日:2022/10/19

小説 すずめの戸締まり
小説 すずめの戸締まり』(新海誠/KADOKAWA)

 ひと言で説明するなら、小説とは「散文で書かれたフィクション」である。この緩やかな定義の範疇にあれば、すべて小説と定義できる。口承文芸に始まる文学の長い歴史において最後に誕生した小説は、既存の文学様式を包括したメタジャンルであるとともに、もっとも自由度の高い表現ジャンルである。

 小説において重要なのはその中身、すなわち「物語の内容」であることは言うまでもないが、それと同じくらいに重要なのが「物語の語られ方」である。小説の小説性とは、「どのような語り手を設定し、その語り手にいかに語らせるのか」という語りの問題に集約する。

advertisement

 新海誠は「語り」に意識的なアニメーション監督であり小説家である。新海監督のアニメーション作品では、モノローグ(独白)、ダイアローグ(対話)、同時モノローグ、リレーモノローグなど、様々な語りの技巧が駆使される。

 監督初の自作ノベライズ作品は、『小説 秒速5センチメートル』(2007年)である。アニメーション作品『秒速5センチメートル』の形式に倣い、小説版でも連作短編の形式が踏まえられている。第一話「桜花抄」の語り手は貴樹(「僕」)、第二話「コスモナウト」の語り手は花苗(「私」)、そして表題作である第三話の語り手は、第二話までの一人称の語り手から三人称の語り手へと引き継がれる。

 一人称の語り手は当然ながら、本人が見聞きしたことや考えたこと、体験したことしか語ることができない。それに対し、シーンごとに視点人物の切り替えが可能な三人称の語り手では、複眼的な情報提示が行える。『小説 秒速5センチメートル』では、第一話、第二話で個人の物語を一人称体ですくいとった後に、第三話において三人称体に切り替えることで、登場人物それぞれの人生が交錯する物語が前景化する仕組みになっている。

 2作目のノベライズ作品は『小説 言の葉の庭』(2014年)である。本作は各登場人物を主人公に置いた10話のメインストーリーに加え、映画では描かれなかった孝雄と雪野の後日譚がエピローグに付け加えられる。孝雄と雪野が主人公となる「話」では三人称体が、彼ら以外の登場人物が主人公に配置される「話」では一人称体が採用されている。そのような変則的な人称構成によって、伊藤宗一郎や相澤祥子、秋月怜美など、映画では限定的にしか描かれなかった人物の内面や思考に深く迫ることが可能になった。

 映画公開後の小説版リリースという慣例を破り、映画公開の2カ月以上前に先行して刊行されたのが『小説 君の名は。』(2016年)である。本作を特徴づける入れ替わりの趣向を語りのレベルで実現すべく、通常時の三葉(「私」)と瀧(「俺」)の語りに加え、三葉の中に入った瀧(「俺」)と瀧の中に入った三葉(「私」)というふうに、シーンや状況ごとに語り手を切り替えることで、主人公二人の入れ替わりを表現している。瀧と三葉が再会するラストの「俺」と「私」のドラマチックな語りの交錯は、本作最大の読みどころだろう。

 続く『小説 天気の子』(2019年)のメインの語り手は帆高(「僕」)である。なぜ帆高がメインなのか。それはこの作品が、東京での一連の体験を経て帰郷した帆高が2年半ぶりに上京し、「彼女とともに過ごした、あの年の夏」のできごとを回顧しつつ、陽菜に届けるべき言葉を探す物語として構成されているからだ。『小説 天気の子』で、陽菜が一人称の語り手として登場するシーンは多くない。その他の人物が語り手となるシーンも限られている。それゆえ、陽菜や須賀や夏美など帆高以外が一人称で語るシーンには注意を払う必要がある。なぜならそのようなシーンは、その人物にとって(そして物語にとって)重要であるからだ。

 それでは最新作『小説 すずめの戸締まり』(2022年)は、どのような語りの技巧が凝らされた小説だろうか。本作は、17歳の高校2年生、岩戸鈴芽(「私」)の語りによるシンプルな一人称小説の体裁をとっている。シンプルな一人称体は、小説における語りの技法を様々に模索し、実践してきた小説家・新海誠が辿り着いた究極の形式といえるかもしれない。

 一人称による語りは、語り手の思考や内省や体験や記憶を、語り手自身が読者にダイレクトに届けることができるナラティヴの形式である。本作は、謎めいた任務を帯びた青年・草太との出会いを契機に、不思議な白猫ダイジンを追いかけながら、日本各地の廃墟の「戸締まり」をする旅へと誘われる少女の物語である。

「逃走と追跡」という動的な運動に動機づけられ土地から土地へと移動する鈴芽は、様々な体験をし、新たな知見を得る。それは思いがけない状況でもたらされる他者との出会いであったり、訪れた土地に息づく歴史や文化や風土に関する情報であったり、彼女にとってなじみのない昭和歌謡の世界であったりする。青年との「戸締まり」の旅を続けていくうちに、鈴芽は封印されていた12年前の記憶を徐々に思いだす。旅を通して自分自身を再発見していく鈴芽の「私の旅の物語」の全過程と、彼女の感情の揺らぎを読者にリアルに明示するためには、主観によって世界を観察し述懐する語り手「私」の設定が必須であった。

 物語の結末近く、この世ならぬ場所に辿り着き、ある人物と対峙した鈴芽が、「私たち、、、、に向かって、私はそう言った」という新たな認識のレベルに到る時、この小説が「私」によってしか語りえない物語であったことが了解される。一人称単数の「私」を包みこむ一人称複数の「私たち」への言葉の伝達こそが、鈴芽の旅の最終目的であったといえないだろうか。「私」から「私たち」へと贈答される言葉の数々は、本作の中心に置かれた「災い」に拮抗する強度を備えた言葉である。それらは旅の経験を通して、鈴芽が自力で獲得した言葉でもある。

 もう一つ『小説 すずめの戸締まり』で特徴的なのは、鈴芽の一人称の語りに組みこまれた「伝聞」の要素である。具体的にいうと、「❖」のマークに挟まれる形で二字下げでレイアウトされた箇所である。本作は、旅の全体を事後的に振りかえる視点で語られている。その際、鈴芽が見聞きできなかったり、状況的に知りえなかったりした情報は、第三者からの伝聞の形で採録される。一人称を補完する伝聞の導入もまた、『小説 すずめの戸締まり』の物語の奥行きを広げる役割を担っている。

文=榎本正樹

えのもと・まさき●1962年、千葉県生まれ。文芸評論家。専修大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。著書に『電子文学論』『大江健三郎の八〇年代』(ともに彩流社)、『Herstories(彼女たちの物語) 21世紀女性作家10人インタビュー』(集英社)、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。全話完全解読』(双葉社)、『新海誠の世界 時空を超えて響きあう魂のゆくえ』(KADOKAWA)など。