家出して海辺の街に辿り着いた中学生の「私」。花束が手向けられた夜の広場で、不思議な少女と出会う【辻村深月 ユーレイ】/はじめての②

文芸・カルチャー

公開日:2022/10/14

直木賞作家4人と、“小説を音楽にするユニット”YOASOBIがコラボレーション! 島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都による短編小説集『はじめての』をYOASOBIが楽曲化し、「文学」「音楽」そして「映像」から物語世界をつくりあげていく話題のプロジェクト。企画テーマ「はじめて」をモチーフに書かれた珠玉のアンソロジー『はじめての』から、各話の冒頭部分を全4回連載でお届けします。第2回は、“はじめて家出したときに読む物語”、辻村深月著「ユーレイ」をご紹介します。

はじめての

 電車は、夜の合間を縫うように走っていく。

 

 窓の外を流れていく景色から昼間の光が失われていくのを、私はぼんやりと眺めていた。

 本も読まず、タブレットも見ないで、音楽も聴かずに。

 こんなに長い時間、景色だけを見ることは初めての経験だった。住み慣れた町を離れ、車窓の景色がどんどん知らない場所のものになっていく。

 窓を通じて車内に入り込む昼下がりの陽射しが、やがて、夕陽のオレンジ色に染まり、そこからだんだんと夜の世界に吸い込まれるように消えていく。その最後の光を、私は惜しむような気持ちで、目で追いかけた。

 昼間の光を見るのは、おそらく、これが最後になるだろうから。

 もう二度と、私はこの明るい世界に帰ってこない。住み慣れたあの町に再び戻ることは、たぶん、二度とない。

 電車から漏れる窓の黄色い明かりが、密度の高い夜の世界をゆっくりと優しく切り裂く。自分に二度と朝がこないことを想像する。寂しい気もするし、同時にすごく安らいだ、ほっとした気持ちにもなる。私はもう、帰らなくていい。朝の世界に、私の日常に、あの中学の、自分の居場所なんてない音楽室に。

 夜になり、乗客の姿がまばらになった電車の中で、私は唇をきゅっと嚙み締める。もうやるって決めた。ずっとずっと考えてきて、ようやく今日、電車に乗った。もう二度と戻らない。今日全部を終わりにすることと、明日もまた学校に行くことを考えたら、想像もできないのは、明日も学校に行くことの方だった。

 電車が、どこかの駅に着く。

 これまで一度も降りたことがなく、初めて聞く駅名だった。誰も降りず、乗ってこない。寂しいホームに等間隔に並んだ照明の光がきれいだった。夜の空気はとても澄んでいて、昨日、自分の町で過ごしていた夜とは、空気の色が全然違う。

 誰の乗り降りもないまま、電車が発車する時の、車掌さんのホイッスルの音が聞こえた。その音を聞き、季節が夏から秋に変わる時に特有の透明度の高い夜の空気を吸ったら、胸がぎゅうっとなった。

 電車が発車する。車両には今、私の他には、少し離れた場所にサラリーマン風のスーツの男の人と、カートを脇に置いたおばあさんがいるだけだ。その二人はかなり前の駅から一緒だけど、私に注意を払う様子は一切ない。そう思ってしまう自分のことが情けなくて、私は頰を引き締める。中学生がこんな時間にひとりで電車に乗っているのを、誰かが気にかけ、どうしたのって聞いてくれるんじゃないか。車掌さんが回ってきて、気に留めてくれるんじゃないか。――もう、帰らないって決めたはずなのに、さっきから何度も、そんなふうに思ってしまう。

 お小遣いをはたいて、私は、今日、全財産分の切符を買った。

 片道分だけ。買える範囲のぎりぎりまでの行き先の切符を買って、電車に乗った。家を出る時にスマホの電源は切った。今ごろ、家族は大騒ぎしているかもしれない。先生たちや学校にも連絡がいっているかもしれない。想像して、自分に言い聞かせる。もう、後戻りはできない。

 知っている人のいない、行ったことのない遠い場所を目指して、電車が進む。いつの間にか、車両にはサラリーマンとおばあさんもいなくなって、乗っているのは私ひとりになった。

 その時、向かいの車窓から――ふいに景色が消えた。

 さっきまで流れていた建物や灯りが完全になくなった景色が、数秒、窓の向こうを流れたのだ。普段だったら何も思わなかったかもしれない。でも、気づいた。たぶん、あれ、海。電車が、私の生まれ育った県を離れて、隣の県の海沿いの場所まで来たのだ。

 夜の海って、そういえば、見たことがない。

 そう思ったのは、ほんの出来心だった。全財産分の切符は、最後に辿り着ける予定の駅まで、まだあった。だけど、衝動的に私は電車を降りていた。

 

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