鏡のような、ふたつの並行世界が存在する日本。娘・夏穂の身柄が拘束されていると知った宗一は…【宮部みゆき 色違いのトランプ】/はじめての③
公開日:2022/10/15
直木賞作家4人と、“小説を音楽にするユニット”YOASOBIがコラボレーション! 島本理生、辻村深月、宮部みゆき、森絵都による短編小説集『はじめての』をYOASOBIが楽曲化し、「文学」「音楽」そして「映像」から物語世界をつくりあげていく話題のプロジェクト。企画テーマ「はじめて」をモチーフに書かれた珠玉のアンソロジー『はじめての』から、各話の冒頭部分を全4回連載でお届けします。第3回は、“はじめて容疑者になったときに読む物語”、宮部みゆき著「色違いのトランプ」をご紹介します。
その日、安永宗一は忙しかった。JR旧御茶ノ水駅近くの発掘現場で、重機の操縦ミスによる横転事故が発生し、ずっとその収拾にかかりきりだったのだ。指令車に置きっぱなしにしていた私物のスマートフォンをチェックしたのは、夕方五時をまわってからのことだった。
ざっと二十件ばかりの着信に驚かされた。全て瞳子からのもので、昼過ぎから断続的にかかってきている。宗一の妻はしっかり者で、よほどの非常事態が起こらない限り、仕事中の彼に連絡してくることはないのに。
慌ててかけ直してみたが、今度は瞳子の方が電話に出てくれない。
「悪い、今やっとスマホを見た。連絡を取りあおう」
短いメッセージを入れて、ちょうど現場を離れるところだったシャトルバスの一台に乗り込んだ。発掘作業員とオペレーター、細密清掃員や修復士たちで満員のバスには、一日の仕事に疲れた働き者たちの汗の臭いが充満している。宗一は両目の奥に疼くような痛みを覚え、指で眉間をもみほぐした。
夏物の薄いジャケットの胸ポケットで、スマホが振動した。瞳子からだ。運よく、バスは次のバス停に近づいている。宗一は電話に出ながら、降車ボタンを押した。
降りたのは彼一人だったが、バス停には長蛇の列ができていた。くたびれてうんざりした顔、顔、顔。
「バスを降りたから、もう話せるよ。どうした?」
宗一は、人の列から離れながら問いかける。
「夏穂のことなの」
応じる妻の声が、妙に小さい。まわりは静かで雑音もないのに、どうしたのだろう。
「ちょっと聞こえにくいんだけど、どこにいるんだ?」
「……ごめんなさい。これでどう?」
少し聞こえやすくなった。
「わたし今、鏡界人定管理局にいるの。青山三丁目にあるビルよ。中央セクト。夏穂の高校は、ここの管轄になるんですって」
そこまで聞いて、宗一はようやく気づいた。妻の声が細っているのは、怯えているからだ。
「何があったんだ」
問いかけてから返事をもらうまでのわずかな間に、宗一の脳裏に一人娘の顔が浮かんだ。十七歳と七ヶ月。ここ二年ほど、家のなかでは笑顔を見せたことがない。たいていは怒っているか、黙ってむくれている。しがない発掘現場監督官の父親と、その父親に「ぶらさがって」生きる方法しか知らない母親への侮蔑を露わにして。
――いっつも呑気そうな顔しちゃって。
――お父さんもお母さんも、今がどんな大変な時代なのか、マジわかってるの?
――平和ボケだよ。
若々しく健康的な毒舌と、小さな牙。
多感な年頃なんだ、思春期で情緒不安定になっているだけだ、親が余裕を失ってどうする、温かく見守ってやらなければ。宗一も瞳子もそう思って努力してきた。
しかし、親も人間だ。徒労感に心が折れることもある。瞳子はそれでもまだ娘とわかり合おうと努力を続けているようだが、宗一は疲れ果て、このごろはなるべく夏穂と生活時間が重ならないようにしていた。お互い、口をきかないどころか顔もろくに見ない。毎晩パパ絵本を読んでとねだり、彼が見せてやる素人くさいカードマジックに目を輝かせてくれた小さな女の子の面影は、今の娘のなかには欠片も残っていない。
「……てるの」
「え?」
「あの子、ここで身柄をとられてるの」
瞳子は囁くように言った。
「一昨日の夜、第二鏡界の国会議事堂で爆破テロがあって、その犯行グループにあちらの夏穂が関わっていたらしくて」
そういえば、今朝現場で誰かがテロの話をしていたような気がする。いや昨日の朝だったろうか。あちらの世界のニュースだったから、聞き流していた。
「そりゃ大変だが、うちの夏穂は関係ない」
「ええ。だけどあちらの夏穂がこちらに逃げ込んでくる可能性があるとかで」
犯行グループのアジトには、協定外渡界に必要な装備や偽造書類、個人データが残されていたのだという。
「逃げ込んできてどうするっていうんだ」
「こっちの夏穂になりすまそうとするかもしれない」
そこで、人定管理局は先んじてこちらの夏穂の身柄を確保し、第二鏡界の夏穂が現れたら、即座に逮捕拘束できる準備を整えているのだそうだ。
「こっちの夏穂のことだって、向こうは保護だと言い張ってるけれど、わたしは拘束だと思うわ」
瞳子の声がかすれる。宗一は手で額を押さえた。目の奥の痛みは治まらない。