同じダークサイドの人間!? きっかけは“読者はがき”『ずっと、おしまいの地』刊行記念対談!【こだま×木下龍也】

文芸・カルチャー

更新日:2022/10/28

木下龍也さん、こだまさん

 今年8月に、エッセイ「おしまいの地」シリーズ最終巻となる『ずっと、おしまいの地』を刊行したこだまさん。それを記念して、シリーズ1作目に読者はがきを送っていたという歌人の木下さんとの対談が実現! 身近な出来事を短歌、エッセイそれぞれの切り口で発信しているお二人に、お互いの作品について、また“記憶が作品として生まれ変わる瞬間”について伺いました。

取材・文=野本由起 写真=菊池陽一郎

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木下 自分では記憶にないのですが、僕はこだまさんの『ここは、おしまいの地』を読んで読者はがきを送ったらしいんです。さっき当時のはがきを見せてもらったら、「同じダークサイドの人間だなと思います」と書いてありました(笑)。

こだま 担当編集さんからその話を聞いて、すごく驚きました!

木下 『ここは、おしまいの地』は、たまたま書店で出合ったのですが、読んでみるとすごく胸に刺さって。書店の企画で選書を依頼された時も、この本をおすすめしました。

――「おしまいの地」シリーズの第1作『ここは、おしまいの地』は、こだまさんが爪痕を残そうと思って執筆したエッセイだそうですね。

こだま 商業誌に載せてもらった初めてのエッセイだったので、とにかく自分の持っているものを出し切ろうと思いました。一冊で終わりだと思っていたので、奇抜で衝撃的なエピソードを目いっぱい詰め込んで。

木下 このシリーズは、どれも目の前の困難をユーモアでどうにかしていくエッセイだと思っています。第1作はユーモアで刺しにいきますが、2冊目以降ユーモアで困難を乗りこなすようになっていきますよね。僕も第一歌集を出した時は尖っていましたが、徐々に丸くなっていったので、似てるのかなと思いました(笑)。

こだま 2冊目からはもっと日常に目を向けて、自分が暮らす田舎の風景や家族の出来事を書いていこうと思ったんです。ただ、ちょうどその頃、鬱気味になっていたのもあって1冊目と比べて暗いんですよね。3冊目は、突き抜けすぎもせず、暗すぎもしない、過去2作をミックスしたような形になりました。いい感じに落ち着いたのかなと思います。

木下 3冊目を読んで、ひとつの完成型に至ったなと思いました。

こだま 1冊目を今読み返すと、「なんでこんな書き方してるんだろう」と感じる描写があって。故郷や住んでいた集落に対して、負の感情ばかりがあふれていたんですよね。でも、2冊目になって「こんな誰もいない場所のことを書くのは私だけだろうな」と楽しくなって(笑)。何もない土地だけど、ちゃんと見れば毎日おかしなことが起こるし、家族の変化もある。以前より日常をよく見るようになった気がします。

時間を置いて書くことでつらい経験も中和できる

木下 『ずっと、おしまいの地』で印象に残っているのは、身内への優しさを感じる「抗鬱の舞」というエピソードです。ユーモアの中にスッと優しさが差し込まれているからこそ、そのギャップが胸にきました。こだまさんのおばあさんは「何もしていなくてごめんなさい。役立たずだから早く死にたい」と口癖のようにおっしゃっていたそうです。それに対してこだまさんは「私が野の草花を好きなのは、祖母が畑を耕しながら名前を教えてくれたから」「鳥が好きなのは、祖母の部屋にセキセイインコや十姉妹がいたから」とひとつひとつ並べていく。それが、自身を否定するおばあさんを包んでいるように感じられて。こだまさんとおばあさんの話ですが、自分を当てはめて読むこともできて、僕も救われる気がしました。

こだま 暗いかなと思っていましたが、そう受け止めてくださってありがたいです。

木下 面白い中に泣けるところもあるのが、うまいんですよね。それに、こだまさんのエッセイは、その時の感情、感じた匂いや光みたいなものが閉じ込められています。人は忘れていく生き物だから、記憶装置としてすごくいいなと思います。

こだま 普段から印象に残ったことは、日記に書き残しているんです。エッセイを書く時には、それを見ながら「このテーマならこうかな」と点と点を結ぶようにつなげていきます。撮りためた写真も見ながら、忘れていたことを思い出していって。ただ、つらいことは時間をおいてから書くことが多いですね。鬱のことも書きましたが、自分が渦中にいる時は暗いことしか書けなくて。ある程度俯瞰できるくらい時間が経つと、つらいことよりも同時に起きていたおかしなことの記憶がよみがえって、つらさが中和されるんです。

――木下さんは、著書『天才による凡人のための短歌教室』の中で、短歌は「記憶の奥にある思い出せない思い出を書くことには最適なツール」と述べています。そこに、こだまさんのエッセイとの共通点を感じました。

木下 短歌というと歩きながらサラサラ詠むようなイメージですが、僕はパソコンの前に座って、短歌を作るモードに入ってから昔のことを思い出していくんです。その時、引っ張ってくる記憶が遠ければ遠いほど、自分にとって納得のいく短歌になることが多い気がします。それを経験した時は言葉にしなかった風景や感情を引っ張ってくるのですが、僕はメモや写真を残さないので忘れている部分も多く、木の幹だけ残って枝葉がない状態。そこを詩で埋めることで、短歌を作っています。

こだま だから、木下さんの短歌は自分を重ねやすいんでしょうね。みんなが自分の思い出を乗せて読んでいるような気がします。

木下 『ずっと、おしまいの地』の中に、「ずっとそこにあるのに気付いていない、見ようとしていない。私にはそういうものがまだたくさんあるはずだ」という文章がありますよね。それは、僕が短歌を作る時にも意識していることです。普通に生きていれば素通りしてしまうけれど、そこで立ち止まるのが短歌を作るということ。僕は“小学校のプールのビート板についた歯形”について短歌を作ったことがあります。そういう“ほかの人も見ているはずなのにまだ言葉になっていないもの”を短歌にするようにしていて。こだまさんもエッセイにそういうものを細かく置いているので、きっと短歌もうまいんじゃないかと思います。

木下龍也さん、こだまさん

エッセイを書くことは過去の自分との対話

こだま 木下さんの短歌を読むと、私には無理だなと思います……。木下さんは『あなたのための短歌集』で、人からお題をもらって短歌を詠まれていますよね。依頼者に寄り添うような短歌を作り、その背景も書くことでより濃密な世界になっていると思いました。お題があると、作り方も違うのでしょうか。

木下 もともと僕は、短歌を作ることに申し訳なさがありました。既にある形に既にある言葉を組み合わせるだけですし、その短さも申し訳なくて。でも「あなたのための短歌」で不特定多数ではなくひとりに向けて書き始めて、自分が書く意味があると初めて思えるようになりました。

こだま 私の場合、誰かを意識して書くことがないんですよね。誰かを想像すると、その人を励ます言葉を入れてしまいそうで。誰かというより、過去の自分と対話するように書いています。

木下 自分のために書くのも、誰かのために書くのも、結局は同じことのような気がします。時を経れば、自分も“誰か”という読者になる。今起きていることを誰かのために書くことは、将来の自分のためでもあるんですよね。

こだま 確かにそう思います。「おしまいの地」シリーズはこれで終わりますが、私はこれからも自分のためにブログや日記で淡々と生活を書いていくんでしょうね。たまにアップしたり消したり、もしくは全然外には出さなかったりするかもしれないけれど、書き続けていこうと思っています。

木下龍也
きのした・たつや●1988年、山口県生まれ。歌人。2013年、第一歌集『つむじ風、ここにあります』を発表。ほかの著書に『きみを嫌いな奴はクズだよ』『天才による凡人のための短歌教室』など。

こだま
こだま●エッセイスト・作家。2017年、私小説『夫のちんぽが入らない』でデビュー。エッセイ『ここは、おしまいの地』で第34回講談社エッセイ賞受賞。ほかの著書に『縁もゆかりもあったのだ』など。