「女性は2~3割増しで自信を持とう」立ちはだかる社会の壁を壊し生きやすい世の中へ
公開日:2022/10/18
画期的な一冊だと思う。暴露本のようなインパクトがあるが、むやみに正当性を主張していない。今、日本がジェンダー平等においてかなりの後進国と呼ばれているうえ、「忖度」や「同調圧力」で生きづらくなっている……とは男女関係なく聞き飽きたかもしれないが、そんな空気を醸成してきた政治とマスコミの実際の一端がよくわかる。
政治家まわりと大手マスコミの裏側が、忖度なく綴られている『オッサンの壁』(佐藤千矢子/講談社)。著者は、毎日新聞で政治部長を務めあげた佐藤千矢子氏だ。セクハラという言葉すら認識されていなかった80年代後半に新聞社に入社し、当時から現在に至るまでの奮闘、問題の提起、自身の反省や迷いまでを率直に語る。
本書を読むと、世に出るニュースなどでは想像しにくい、取材現場の様子がありありと浮かび上がってくる。セクハラ、パワハラの詳述をはじめ、大物の政治家が新聞社やテレビ局に圧力をかけたり、取材拒否をしたりする事実なども、こうして改めて記されているのを読むと愕然とする。
一筋縄でいかない政治家を取材するためとはいえ、政治部の記者たちは日常的に「夜討ち朝駆け」というストーカーのような取材方法を行うという。しかも議員から情報を取るために一緒に夜遊びをするのが定石という雰囲気もあったとか。そもそもの距離感もおかしければ、毎日が体力的に精神的にも過酷を極めた状態で、まともな判断や取材ができるのか。女性記者が少なく、記者会見などでまともな質問や議論を国民が見られないわけである。
家庭での役割が今も大きい女性が働きつづけられる職場であるわけがない。必然的に男性社会となり、ますます井の中の蛙状態でジェンダーバイアスに磨きがかかるのだろう。タイトルにあるオッサンの弊害だ。著者はこうした状況を変えようとしているが、そもそもこの「オッサン」とはどういう人物なのか。同書で、わかりやすく定義している。
私が思うに「オッサン」とは、男性優位に設計された社会で、その居心地の良さに安住し、その陰で、生きづらさや不自由や矛盾や悔しさを感じている少数派の人たちの気持ちや環境に思いが至らない人たちのことだ。いや、わかっていて、あえて気づかないふり、見て見ぬふりをしているのかもしれない。男性が下駄をはかせてもらえる今の社会を変えたくない、既得権を手放したくないからではないだろうか。
男性優位がデフォルト(あらかじめ設定された標準の状態)の社会で、そうした社会に対する現状維持を意識的にも無意識のうちにも望むあまりに、想像力欠乏症に陥っている。そんな状態や人たちを私は「オッサン」と呼びたい。だから当然、男性でもオッサンでない人たちは大勢いるし、女性の中にもオッサンになっている人たちはいる。
さらに踏み込んで議論を促す。そうした思考停止によって、男性も自分で自分を苦しめているのでは? このままでは自分の娘など身内が同じような目に遭うと想像したら? 実際、体力的にも精神的にも追い込まれた状況で働かざるを得ない男性やオッサンは多く、その“下駄”もボロボロで靴擦れだらけかもしれない。いったん脱いで休むことで、見えなかったものが見えたり、互いに助け合えたりするのではないか。
現状の日本社会には、あちこちに「オッサンの壁」が立ちはだかっている。同書では、これを打開する方法論や耳を傾けるべき当事者たちの意見も、取材と経験によって示されている。
第一歩は、やはり数から取り組むことかもしれない。「黄金の3割」や「クリティカル・マス」という理論にあるように、少数派の女性の割合が一定数を超えることで、周囲からの圧力を感じにくくなり、発言や行動ができるようになり、凝り固まった組織に影響があらわれることを目指すのだ。
世界銀行などを経て起業したある女性の処方箋も、鋭く刺さる。日本の女性へのエールだ。「女性にいかにお金がまわらない仕組みになっているか」という現状に警鐘を鳴らしつつ、「女性たちがまず自分に自信を持つこと。女性は2~3割増しぐらいに自信を持って初めて男性と同程度になる」と語る。女性の賃金が低いことに正当性はなく、交渉はすべきで、人に助力を求めることも躊躇すべきではないと。
最後に「オッサンの壁」は壊すものだと著者は背中を押す。今の鬱々とした世相も、一人でも多くの人が今の時代には合わない、おかしいと思うことを変えようとしていくことで拓けていくはずだ。
文=松山ようこ