証明写真機との友情/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人⑭
公開日:2022/11/8
周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!
長々と自分ができないことを言い訳のように説明する悪癖がある。そんな自分を変えるためにも、できないことを、「できない理屈」で乗り越えようとするのはもうやめにしよう。
「できなかった」という事実から目を背けず正対することで、それができるようになるかもしれない。
だから、「確かに失敗したけど、しくじったことで新しい視点だったり、新しい物語の道筋を見つけることができたりもするし、これはこれで良かったんだよね」という処理の仕方も無しにしよう。物語や妄想へ逃亡するのはやめだ。
そんな乗り越えなければならない壁の一つに「証明写真を書類に添付してポストに投函する」という作業があった。これを成功させれば自信もつくし成長に繋がるはずだ。
ちょうど良いタイミングで仕事の空き時間ができた。その近くで証明写真機を探すことにした。スマホのアプリをひらき地図上で確認すると徒歩7分の場所に証明写真機が見つかった。正直、その時点で私は越えるべき壁の低さに物足りなさを感じてしまうほど余裕があった。その余裕をさっさと証明写真に変えるため、早速、行動に移すことにした。
地図では新宿のラブホテル街の真ん中に証明写真機が設置されているようだった。
なぜ、そんなところにあるのだろうと不審に思ったが、新宿には飲食店をはじめ無数の店が存在するので、行われる面接の数も必然として膨大になる。
ということは、面接の際に必要な証明写真機もあらゆるところに設置されていても不思議ではないのである。いつの日か、「答えは、新宿です!」と発表する司会者の声がテレビから聞こえてきて、なんだろうとテレビ画面を見ると、「東洋一、証明写真機が多い街はどこでしょうか?」という問題がテロップで表示されているかもしれない。
そのようなことを呑気に考えていられるほど、勝利を確信した私の足取りは軽かった。
しかし、なにとの勝負なのだろうか?
これは証明写真機との戦いなのか?
それとも手続きとの戦いなのか?
いや、これはあらゆることを果たさずに生きてきた怠惰との戦いだった。
その怠惰とついに決着をつけるときがきたのだ。
しばらく、重要ではないことについて一人で考えてしまったために自分がどれくらい歩いたのかわからなくなった。再び、スマホで地図を確認すると、目的地にしていた証明写真機をとっくに通り過ぎていた。地図上で確認しなおすと、出発地点と現在地のちょうど中間に証明写真機の印が立っていた。
出発地点から証明写真機までが7分だったので、ここまで単純計算で14分歩いたことになる。同じ道を戻ると、やはり14分かかるだろうから、それだけで約30分を浪費してしまったことになる。そのうちの半分は必要な時間だったから気にしなくてもいいとして……、と考える時間がまた無駄になっていく。
ここから撮影に要する時間を考慮すると、贅沢に時間を使ってはいられない。最初の漠然とした予定では証明写真の撮影を終えても、まだ時間が余るだろうから、証明写真の撮影に成功した記念としてウイニング蕎麦を食べようと考えていたのだが、この調子ではウイニング蕎麦を食べる時間は無さそうだ。
だが、ウイニングおにぎりくらいならまだ間に合うだろう。頭に浮かびかけた不安の文字を消して、来た道を少し早足で引き返した。だが、私の頭の中で、「最初からちゃんと場所を確認していたらこんな無駄なことにはならなかったんだぞ」という囁きが聞こえはじめる。その声は鼓膜にこびりつくような不気味な声で、「どうせまた失敗するんだろ?」とも囁く。その声を打ち消して歩き続ける。
『走れメロス』と構造が似ているかもしれないと思いかけたが、メロスと私では賭けているものが全然違う。彼が間に合うかどうかには友人であるセリヌンティウスの命が賭けられている。私は自分の身分を証明するために歩いているだけだった。
そんなことを考えているうちに、また証明写真機を見失うかもしれないので小まめに地図を確認する。すると、どうやら目的地に到着しているようだった。
証明写真機は地図で示された場所にちゃんとあった。その時、無機質な白い箱がなぜか妙にかわいらしく見えた。
しかし、あろうことか証明写真機は壊れていた。見事に壊れていた。
ふざけんなと思ったが、それは誰がふざけているのだろうか。突き詰めて考えるとこの状況をもたらした自分こそがふざけているのではないか。いつだって、ふざけているのは自分自身でしかない。
証明写真機の中の椅子に一人で座ったまま、途方に暮れた。薄いカーテンの外を歩行者が通って行く。まさか、証明写真機が壊れていたということを受け入れられず、その椅子に座ったまま呆然としている男がいるとは誰も思わないだろう。
「故障の場合はご連絡ください」と業者の番号が表示されているが、今から業者に連絡してこの証明写真機が修理されたとしても自分が使えるわけではない。「だったら意味が無いから連絡しない」と考えた人ばかりだったから、この故障したままの状態が続いているのだろう。誰かが集金に来たときに、「おかしい、あまりお金が入っていないぞ」と異変に気付き、ようやくこの故障が発覚するのだろう。それなら故障して間もないということだろう。
そっと証明写真機に触れてみるとまだ温かかった。さっきまでは生きていたということがわかった。自分がもう少し早くここに辿り着くことができていたなら。
メロスはセリヌンティウスを救い、私は証明写真機を殺した。
もう世界に私が証明されることはない。誰も証明してあげることのできなくなった白い箱の中で、誰にも証明されることのない男が座っていた。
「僕達って似ているのかもしれないね」どこからともなく声が聞こえた。
それは証明写真機の声だった。まだ微かに息があるようだった。
「全然、似てないよ。だってキミは沢山の人の写真を撮って、その人の身分を証明してきただろ? そして何度も役目を果たしたことで疲れてしまったんだよ。でも、僕はずっと自分の身分を証明できないままなのだよ」
「キミだって身分を証明できるよ。そのためには、ここから早くでて他の証明写真機を探すんだ」
「もういいんだ、変な話だけど写真が撮れないキミと出会えて妙に落ち着いている自分もいるんだ」
「なに言ってるんだ! ここにいたらダメだ! 早く行くんだ!」
「僕が世界に証明されないなら、そんな世界は無いものとして考えるよ。キミとのここだけが僕の存在する居場所なんだよ!」
私がそう叫ぶと、薄いカーテンの向こう側の世界が暗闇に包まれてしまった。誰かの悲鳴のようなものが聞こえた。その悲鳴がどんどんひろがっていく。私が否定した世界が消滅しようとしているのかもしれない。
「違う!」
証明写真機はそんな世界を認めようとしなかった。
「もういいんだよ」
私はもうすべてを諦めていた。
「じゃあ、俺が撮る!」
「えっ?」
証明写真機はお金を入れていないのに、バシャ!バシャ!と何度もシャッター音を鳴らしながら、私の顔を撮影した。
「やめろ! そんなことしたらキミの体力が持たない! バッテリーがあがってしまう!」
「かまうものか!」
バシャ!バシャ!バシャ!バシャ!
「まだメンテナンスすればキミは現役で活躍できるんだ!」
バシャ!バシャ!バシャ!バシャ!
しかし、そのシャッター音の勢いとは裏腹にいつまで経っても写真は現像されなかった。
証明写真機は、ついに「ごめんね」と泣きだしてしまった。「キミが謝ることじゃないよ」といくら説明しても証明写真機は泣き止まなかった。
だから私は自分の正直な気持ちを証明写真機に伝えることにした。
「いつも現実から逃げてばかりいた僕にキミは勇気をくれた。僕はいつか必ず証明写真を撮り、自分の身分を証明してみせるよ。そう思わせてくれたのはキミだ。僕を物語に逃がさなかったのはキミなんだよ」
証明写真機は静かに話を聞いてくれた。
そして、私は自分のスマホを取り出し、証明写真機と自分のツーショット写真を撮影した。
身分を証明することは叶わなかったが、証明写真機との友情は証明することができた。
(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)