壊れた「世間」にがんじがらめ!? 見知らぬ人と話せない日本人と生きづらさの理由
公開日:2022/11/17
アメリカやヨーロッパでは見知らぬ人から声をかけられることは日常だ。バス停で「バスはいつ来ると思う?」、ショッピングモールで「この店に行きたいんだけどわかる?」、スーパーで「あなたの上着、いいね!」、雨上がりの空に虹が見えたら「ほら見て、あそこに虹が出てるよ」等々。目が合えば微笑んでくれることだって少なくない。でも、日本でこうしたやり取りはめったに交わされない。見ず知らずの人から声をかけられると、かなりの人は身構え「何ですかいきなり!」「自分で調べればいいのに……」「あなた誰?」と訝しがるからだ。
なぜこうした違いが存在するのか。それは、日本人は「世間」とのつきあい方は知っていても、「社会」とのつきあい方がわからないからという。こうした日本人が抱える「世間」と「社会」の独特なあり方と、生きづらさや「空気」をはじめとした「同調圧力」について、長らく連載エッセイのなかで綴ってきたことをまとめたのが鴻上尚史氏の『世間ってなんだ』(鴻上尚史/講談社)。軽快で読みやすくも、やたら不寛容になっている今の日本を俯瞰できる。
鴻上氏は説明する。「世間」とは、今か将来、自分と関係がある人たちのこと。つまり会社・学校・仲間・近所など知り合いのいるコミュニティに属する人たちだ。「社会」は今か将来、自分にまったく関係ない人たちのこと。電車の隣の人、すれ違う人、前述のバス停やショッピングモールなどで話しかけてくる人たちも含まれるだろう。
日本人は、「社会」を認識していなかったり、「社会」に属する人とはつきあおうとしなかったりするので、自分と何のつながりもない人をなかなか信用しない。だから、見知らぬ人との何気ない会話が生まれないのだ。
昔なら、それで良かった。「世間」である村落共同体や会社共同体のルールに従っていれば、結婚も収入も老後も安泰だったからだ。いわゆる身内が人生のイベントにおせっかいして、生きるのに困らないよう何だって世話してくれた。ルールは、「情」や「絆」。
だから、同じ「世間」に属する人には、思いやりのある言葉がかけられるし、多少の失敗にも寛容だったりする。だが一方で、自分たち以外の「社会」に属する人、つまり関係ない人には冷淡だ。「世間」は排他性によって「情」と「絆」を強めるからだ。
ところが今、その「世間」はもはや安泰ではなく、中途半端に壊れている。自分を必ずしも世話してくれないし、守ってもくれない。にもかかわらず、多くの人は「世間」に縛られている。
しかも「社会」の人を排他しようとするままだから、電車で居合わせた人に不寛容になったり、店員にいきなりキレたりするのだ。何か要望があれば、「世間」の知り合いを諭すように穏やかに話せば済むものを、見知らぬ人と話す術を持たない。
残念なことに、そうしたことはSNSでも頻繁に起きている。見知らぬ人が、いきなりとんでもない言葉を投げつけるというように。
もちろん、欧米でもそういう人は存在するが、英語では「Internet troll(インターネットトロール)」と呼ぶ。インターネットに棲まう妖怪、特殊な少数の人、というイメージだ。一方、日本では「ネット民」と呼び、多数派のイメージすら思わせる。
実際は、よく炎上を起こす人たちが驚くほどごく少数であることが明らかになっているように、そういったケースは往々にして「社会」の声ではない。「社会」と対話して自分の要望を訴えるやり方を知らず、中途半端に壊れた「世間」に生きて病んでいる、ごく一部の人たちの叫び声なのだ。
混雑した電車では、微笑み合わずとも、隣の人を睨みつけるのではなく、「弱りましたね」と目配せするだけでも「空気」は変わる。日本人が囚われている「世間」、かかわり方を知るべき「社会」があることを認識すると、日常生活でもSNSでも見えなかった“あり方”が見えてくる。同調圧力も「世間」が生み出す「空気」の典型だ。言いようのない生きづらさを感じている人に読んでもらいたい一冊だ。
文=松山ようこ