泳ぎ出せなかったのか、それとも泳ぎ出せる可能性を奪われたのか。『エフィラは泳ぎ出せない』から考える、障害当事者と家族の葛藤

文芸・カルチャー

更新日:2022/11/24

エフィラは泳ぎ出せない
エフィラは泳ぎ出せない』(五十嵐大/東京創元社)

“障害は個性である”

 このような謳い文句が世に出回って久しい。だが、私はその言葉を素直に肯定できない。それは、私自身が障害認定を受けているからにほかならない。これまでの人生において、自身の障害を「個性」だと思えたことは、残念ながら一度もない。私にとって障害は、名前の通り「社会を生き抜く上での障壁」でしかない。差別や偏見――自覚的なもの、無自覚なものに関わらず、これまで舐めてきた苦渋の数など、もはや数える気にもならない。

『しくじり家族』『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』などの著書で知られる五十嵐大氏による、ミステリデビュー作『エフィラは泳ぎ出せない』は、知的障害を持つ聡の自殺から物語がはじまる。

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 主人公は、都内でフリーライターとして働く小野寺衛。自殺した聡は、衛の兄に当たる。伯母から兄の訃報を聞き、7年ぶりに故郷の松島に帰省した衛。聡の死因は自殺と断定されたが、どこか釈然としないものを肌で感じた衛は、兄の死の真相を突き止めるべく、聡と関わりの深かった人物から話を聞き出していく。

 家族に障害者がいる。それは、障害当事者が抱える苦悩とはまた別の葛藤がある。「衛」という名前は、「障害を持つ兄を守ってほしい」との願いから付けられたものだった。家族であるがゆえに、日常にありふれた差別や偏見による攻撃の盾になることを当然のように求められる。それは幼い衛にとって、あまりに苦しい重圧だった。

 衛は重圧に耐えきれず、兄から距離を置く。その間、ほかの家族たちもまた、聡に対して歪な接し方を繰り返していた。

 障害があったとしても、周りの人々と同じように生きてほしいと願い、社会の枠組みにはめようと躍起になっていた父。自身の心に空いた穴を埋めるべく、聡を「何もできない子どものまま」で、時の止まった箱庭に閉じ込めようとした伯母。条件の良い就職先を紹介できれば、それが聡の安泰につながると信じ、聡本人の気持ちに目を向けなかった幼馴染み。

 みんな元々は、「聡のため」を思っていた“つもり”だった。だが、聡にとって、その優しさは「檻」でしかなかった。

 一見寄り添う素振りのなかにも、差別意識は隠れている。明確な差別よりも見えにくいぶん、いっそたちが悪い。

「あなたのためを思って」

 そう言えば許されると思っている人間の多さに辟易する。そのほとんどが、「自分のため」であるというのに。

「ぼく、かわいそうじゃないよ」

 生前の聡の言葉に、すべてが込められている気がした。

「エフィラ」とは、海月(くらげ)の幼生をさす。泳ぎ出せなかったエフィラは、本当はどこに行きたかったのだろう。タイトルの意味に行き着いた瞬間、胸を貫かれるような痛みに襲われた。

 エフィラには、意志があった。泳ぎ出せなかったのか、泳ぎ出せる可能性を奪われたのか。著者が本当に伝えたかったのは、聡の死の真相ではなく、その奥にあるものだ。小説は物語だが、物語の背景には、大抵の場合、近しい現実がある。どんなに痛くても、私はそこから目を逸らしたくない。そう思ったからこそ、著者はこの物語を書いたのだろうと、私は思っている。

文=碧月はる

※書籍にあわせて「障害」という表記を使用しています。