「馬鹿な子だ」というレッテルは、その子の成長の芽を摘みかねない。寺地はるなの新作『川のほとりに立つ者は』は他人を尊重する大切さを再認識させる傑作だった

文芸・カルチャー

更新日:2023/2/2

川のほとりに立つ者は
川のほとりに立つ者は』(寺地はるな/双葉社)

 自分が当たり前にできることを、うまくできない他人がいる。それができない人を「ダメな奴だ」と切り捨てるのは簡単だ。けれどその振る舞いは、きっといつか、自分も誰かに切り捨てられる未来に繋がっていく。そうならないために、私たちにはいったい何ができるのか、寺地はるなさんの小説『川のほとりに立つ者は』(双葉社)は切々と訴えかけてくる。

 物語の発端は、一本の電話。恋人の松木が怪我をして運ばれ意識不明だと知らされた清瀬は、駆けつけた病院で、松木の友人・樹も同じ状態であること、松木が加害者である可能性があることを聞かされる。動揺のなか、松木の実家に電話してみれば、母親は「昔から乱暴者だった」と突き放し、心配するそぶりもない。

 清瀬の知る松木は暴力とは無縁の穏やかな男だっただけに、混乱は深まる。いったい何が起きたのか、真相を探るうち、清瀬は、松木のある秘密に触れることとなる。

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 秘密の陰には、一人の人物の存在があった。「文字を書くことができない」という一点を除けば発達に遅れはないその人物が、学習障害かもしれないと、うすうす気づいていたのは松木だけ。子どもの頃から馬鹿だと笑われ、努力不足だと叱られてきたその人物は、自身もそう思い込んだまま大人になった。ところが、あることをきっかけに、文字を書けるようになりたいと松木を頼る。それが、冒頭の事件へと繋がっていくのである。

 「馬鹿な子だ」というレッテルは、その人物が努力すれば得られたかもしれない成長の可能性を摘み取った。読み書きができなくても生きていける方法を探せばいい、という親の配慮は愛情でもあっただろう。けれど、その人物が本当はどうしたかったのか、どうありたかったのかという気持ちは、そこでは置き去りだ。「暴力的」と親に決めつけられて、気持ちに耳を傾けてもらえない子ども時代を過ごした松木だけが、その人物の心に寄り添うことができたのだ。

 読みながら、親たちの気持ちがわかってしまう自分もいることに、少なからずショックを受けた。我が子であれ、自分と“違う”相手を十全に配慮できるのは、心に余裕のあるときだけだ。そしてたいてい、そんな余裕は、日常に生まれない。理解できない存在には、わかりやすいレッテルを貼って軽んじる、あるいは拒絶してしまうのがいちばんラクだと知っている、自分の弱さをも突きつけられたような気がした。

 松木に寄り添う立場であるはずの清瀬も、同じだ。職場の“扱いづらい人”がADHDだと知ったとたん、清瀬の怒りは戸惑いに変わり“配慮しなくてはならない人”へと認識も変わる。だがそれは、その人を自分と対等な人間として扱わない、逃げの一手だ。上っ面の理解で、自分に都合のいい対応を貫くのは、配慮でもなんでもないのだということを、本作では傷つける側と傷つけられる側、双方の視点から丁寧に描きだしていくのである。

 じゃあどうすればよかったのか。これからどうするべきなのか。清瀬がたどりついた結論は安易に誰かを救えるようなものではなく、むしろ再び、誰かを傷つけるかもしれない危険性を孕んでいる。それでも、私たちは目の前の相手に向き合い続けることでしか、手を取り合うことはできないのだと、痛切に感じさせられる一冊だった。

文=立花もも