娘の体を手に入れた母の末路とは? 母娘間の呪いと人間の業を描いた、楳図かずおの傑作ホラー
更新日:2022/12/5
楳図かずお氏が、脳の交換という衝撃のテーマで母娘の愛憎を描いた『洗礼』(小学館)に出会って、約10年。その間、私には娘が生まれたが、その艶やかな髪の毛や張りのある肌といった、自分に失われたものに触れるたび、この物語を思い出す。それほど、女として、母として生きる上での自分の考え方にトラウマ級の影響を与えたのが、この漫画『洗礼』だ。
1974年から76年に少女漫画誌に連載された同作。その美しさで一世を風靡した女優の若草いずみは、幼少期から老いへの強い恐怖を感じていた。化粧や強い照明の影響で顔にアザができ、自分が醜くなっていくことに耐えられなくなったいずみは、主治医のアドバイスで、娘を産んで脳の交換を行い、肉体を奪い取ることを計画する。生まれた娘・さくらは何も知らずに心優しく育ったが、小学生になったある日、自宅で手術の準備が進んでいることを知ってしまう。母はすべてを娘に話し、脳移植を実行に移す。
さくらの叫び、追い詰める母、脳移植の様子など冒頭から恐怖描写が続くが、ビジュアル面よりも心に強く突き刺さる恐怖が魅力の『洗礼』の真骨頂は、むしろその後。娘の肉体を手にした母は、第2の目的である「女としての普通の幸せ」を得るため、担任教師・谷川の妻の座を狙う。谷川を誘惑し、彼の妻を苛め抜き、自分を信じる友人を利用して邪魔な者は迷いなく消そうとするさくら。しかし、周りが母娘の真実に迫るうちに、追い詰められたさくらの顔には母と同じアザが出現する。そして、肉体交換の衝撃やさくらの暴走が霞むほどの真の恐怖が、物語のラストに待っている。
悲劇の始まりは、言うまでもなく母の病的な美への執着だ。しかしさらに怖いのが――ネタバレになるので詳しい記述は避けるが、母の苦しみや願いを受け取った娘の心の行く末。娘や母であったことがある人なら、歳を重ねる母と自分を重ねて複雑な思いを抱いたり、娘に自分の人生を投影したり、叶わなかった夢を託したりする経験に、心あたりがある人もいるだろう。お互いへの嫉妬心や、娘が思うように育たないことへの強い苛立ちも、母娘では強いと思う。女性だから、男性だからという言い方は受け入れにくい時代だが、母娘間に存在する呪いのような強いつながりの危うさを、恐怖を通して容赦なくつきつける『洗礼』は、きっと私が母娘関係を生きる上でのバイブルであり続けるだろう。
同時に『洗礼』は、永遠の若さというタブーに足を踏み入れた女の破滅を通して、「愛とは何か」「常識とは何か」を私たちに問いかけ、価値観をグラグラと揺さぶる。そして、ここまでさんざん、精神に訴える衝撃や、母娘の物語であることを強調してきたが、楳図かずお氏の画力と人間の本質を暴く鋭い筆致が冴えわたる『洗礼』は、読者の性別にかかわらず、純粋に恐怖漫画として思い切り楽しめる傑作だ。本作がすごいのは、どんなに覚悟をして読んでも、予想していなかった種類の恐怖が襲ってくること。未読の方は、心して挑んでほしい。
文=川辺美希