「何の音だ! 何なんだ?」地震、そして異様な音が響き…/方舟⑧【2022年話題のミステリを試し読み!】
公開日:2023/1/4
『週刊文春ミステリーベスト10』国内部門で第1位に輝き、『このミステリーがすごい!2023年版』国内編第4位にランクインしたミステリ小説『方舟』(講談社)。著者は2019年に『絞首商会の後継人』で第60回「メフィスト賞」を受賞した、夕木春央氏だ。
舞台は、山奥の謎めいた地下建築。大学時代の仲間5人と従兄と地下建築を訪れた主人公。さらに偶然近くにいた3人家族もともに過ごすことになるが、やがて一行は地下に閉じ込められてしまう。そんななかで殺人事件が発生! 脱出するには1人の犠牲が必要で、生贄は犯人がなるべきだ。 タイムリミットはおよそ1週間――。
有栖川有栖氏、法月綸太郎氏など、名だたる作家や書評家が絶賛する傑作ミステリの冒頭を、全8回で試し読み!
「麻衣にさ、ちょっと前から隆平のことで相談を受けてたんだよ。一年くらい前からか。それこそ、機嫌が悪いとやたら栄養の話を持ち出して料理にケチをつけるとか、田舎だと運転中にシートベルトしてくれないとか。なんかあの二人、ちゃんと付き合う前に結婚したって感じだったからなあ」
「ふうん? そうか」
同じサークルにいたのに、僕は二人がどういう経緯で結婚することになったのか、あまりよく知らずにいる。付き合い始めたのは卒業間近のことで、就職だとかでゴタゴタしていたから、そのときの僕は気づかなかったくらいである。隆平の方から言い寄ったらしいことだけは聞いている。
それから数ヵ月で、二人は結婚した。麻衣によると、恋愛が面倒臭くなってきていて、もういいかなと思っちゃった、のだという。
「僕はさ、隆平とは中学のころから同じだから、まあ隆平のことはよく知ってるからさ。
知ってるったって、じゃあどうしたらいいか僕に分かる訳ないけど。確かにあいつそういう奴だよねぇ、的なことしか言えなかった。
それで麻衣、僕にいろいろ相談をしてたってのが最近隆平にバレたらしくてさ、それから音沙汰なかったんだ。そんで、今回裕哉に誘われて、二人も来るっていうから、ちょっとどうなるかと思ってたんだよね」
「なるほど。で? 俺をわざわざ呼んだのは、人妻を寝取る計画を手伝わせるためか?」
「――いや、そんなエグいこと言わないでくれ。そういうんじゃないよ。たださあ、すごい怖かったんだよね。隆平がどう思ってるのか全然分かんなかったし。なんていうか、吊し上げられるというか、めっちゃ精神的ダメージを負わされそうな気がしてたからさ」
隆平と喧嘩になり、結果的に自尊心を痛めつけられること――、それを心配していたのは本当で、従兄を連れて来て、いざというときに防波堤になってもらおうと思ったのも事実だった。
翔太郎は依然として、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「まあ、そんな心配いらなかったっぽいけど。わざわざ来てもらって逆に申し訳ないんだけどさ」
「それは別にいい。面白い建物が見られたしな」
「そう? なら良かったけどさ。会ってみたら、麻衣も隆平も思ったより普通だったな。隆平にはちょっと目をつけられてる感はあるけど、何ごともなかった。明日はもう帰るだけだろうし」
「まあ、柊一がそれでいいならいいけどな。まだ、何もないと決まった訳じゃない」
翔太郎は、期待を煽っているんだか、不吉なんだか分からない口振りで言った。
話は途切れた。僕は電気を消し、寝袋に潜り込んだ。
廊下の蛍光灯は点けっぱなしである。ドアが、漏れる明かりで長方形に切り抜かれたように見える。
明日は、日が昇ったらなるべく早く地下建築を出た方がいいだろう。
そして、山道を歩いて別荘に戻り、そこから車で東京に帰らなければならない。慌ただしくなるはずである。
2 天災と殺人
一
僕は、カチャカチャと金属同士がぶつかり合う音で目を覚ました。
それは聞こえるはずのない、いかにも凶兆というべき音だった。起き上がってあたりを見回し、音の出所を探すと、壁に並べられたスチール棚が振動している。
その様子が目に映ると同時に、僕は部屋全体が揺れているのに気づいた。
「地震? ――ウソだろ?」
まだ覚醒しきらない僕の頭は、徐々に、自分たちが今どこにいるのかを思い出す。僕らは普通の建物にいるのではなかった。ここは山奥の地下建築なのだ。
「おい! 危ない。離れた方がいい」
先に起き出していた翔太郎が、ぼんやりする僕の腕を摑んで、スチール棚の側から引き離した。
次の瞬間、僕はもんどり打って床に転がった。
翔太郎はドアノブに摑まりかろうじて体勢を保つ。スチール棚が立て続けに床に倒れる。揺れは一気に苛烈になった。建物のあちこちから、何かが倒れ、壊れる音が聞こえる。さらには、花のらしい悲鳴が小さく響いてきた。
地下建築それ自体も、錆びたのこぎりを挽くような音を立てて軋んだ。このまま、落とし穴を踏み抜くみたいに、建物全体が沈下するのではないか。そんな想像が脳裏を掠めた。
揺れはなかなかおさまらない。もう、五分近くも揺れ続けているのではないか?
そして――、揺れがこれ以上ないまでに強まったときであった。
巨大な銅鑼を叩いたような、異様な音が響いた。音はすぐには消えず、『方舟』全体にこだました。
「何の音だ! 何なんだ?」
「この音だけはヤバい」
それまで平静だった翔太郎が、初めて少し狼狽したようだった。
揺れはおさまった。建物は崩れなかった。しかし翔太郎が安心した様子はない。彼は建て付けの悪くなったドアを蹴り開けると、出入り口の方へ急いだ。
廊下の奥から、わらわらとみんなが集まって来る。階段のあたりに、七人が揃った。
「あ! 花さあ、大丈夫だったの?」
裕哉が訊く。花は、さやかに後ろから支えられていた。
「めっちゃ頭打った。すごい痛い」
誰もが、寝込みを揺れに襲われたようである。奇妙な地下建築にいることと相俟って、みんな、今の出来事を現実と信じかねるような顔をしていた。
食堂の斜向かいの103号室から、矢崎一家が出てくるのが見えた。
「あの、さっき、すごい音したでしょう? 大丈夫です? とにかく外に出た方が良さそうだけど?」
矢崎がこちらに大声を上げる。この一家はすぐにでも地下建築を逃げ出す気のようで、妻も息子もすでにリュックサックを担いでいた。
翔太郎が答える。
「そうですね。早く出た方がいいな。出られるものなら」
――出られるものなら?
そう聞いて、寝ぼけていた僕の頭は、ようやくあの巨大な銅鑼を叩いたような音の正体に思い当たった。
鉄扉の向こうの洞窟のような通路には、巨大な岩が置かれていたのだ。おそらくは、いざというときのバリケードにするためのものである。それが、今の地震で転がったのだとしたら? あれは、岩が鉄扉に激突した音だったのではないか?
翔太郎が鉄扉に急ぐ。事態の深刻さを察したみんなも続いた。
彼は、ノブを回して鉄扉に力を込めた。それでも開かないと、今度は体当たりをした。
鉄扉は、数ミリしか動かなかった。岩は、反対側から、ほとんど隙間なくそれを押さえつけているらしい。
「ちょっと、俺やってみるわ」
隆平がノブを握って、唸り声を上げ扉を押す。
さらには僕も加わって、三人がかりで鉄扉に手をつき、ぶつかり稽古のように叩いた。
それはビクともしない。到底人力で動かすことはできないのが、僕らの試みを跳ね返す鉄扉の感触で分かった。力なく腕を下ろすと、みんなは焦燥に満ちた顔でこちらを見た。
僕ら十人は、この地下に閉じ込められたのだ。
「どうするの? ――このまま出られないかもしれないってこと? そんなことある?」
花が、恨めしく呟く。
「いや、――一回下に行ってみよう。あそこから何かできるかもしれない」
翔太郎を先頭に、僕らは階段を地下二階へ向かった。