笑い飯、そしてM-1グランプリはいかにして怪物になったのか。80人以上の証言を交えた圧巻のノンフィクション『笑い神 M-1、その純情と狂気』

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公開日:2022/12/26

笑い神 M-1、その純情と狂気
笑い神 M-1、その純情と狂気』(中村 計/文藝春秋)

「人生、変えてくれ」──。2021年M-1グランプリのキャッチコピーどおり、この年、栄冠を手にした錦鯉は、人生を激変させた。優勝すれば、いや、決勝で爪痕を残すだけでも、その後の運命が大きく変わるM-1グランプリ。漫才界でもっとも権威ある大会のひとつとして、今や年末の風物詩になっている。

 そんなM-1グランプリにすべてを懸けた漫才師たちを追ったのが、『笑い神 M-1、その純情と狂気』(中村 計/文藝春秋)だ。軸になるのは、2010年に、結成10年目のM-1ラストイヤーで悲願の優勝をもぎ取った笑い飯。哲夫さんと西田幸治さんが互いにボケ合う「ダブルボケ」で、「鳥人」「奈良県立歴史民俗博物館」といった奇想天外なネタを繰り広げる異能コンビである。千鳥の大悟さんは「今でも哲夫さんにおもろないと言われるのが、いっちゃん怖いですから(P15)」と話し、元アジアンの馬場園梓さんは「神なんですよ、ホントに(P14)」と語る、まさに漫才師が崇拝する漫才師。当人はもちろん、彼らを取り巻く芸人やスタッフらの証言を交え、笑いに対する狂気にも似た熱情を炙り出している。

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 M-1で初めて笑い飯を知った自分のような関東育ちの人間からすると、笑い飯ははなから成功が約束された天才コンビに見えた。だが、実はNSC大阪(吉本興業の芸人養成所)さえ出ていないインディーズ出身。もともとは別のコンビを組んでおり、50~60人も客が入ればいっぱいになる廉価なレンタル部屋でライブを行っていたという。プライベートでも千鳥のふたりと4人でつるみ、何時間もえんえんボケ続けたり、大喜利したり。頭をフル回転し続けるお笑い合宿のような日々を過ごし、彼らはもともと強い地肩をさらに鍛えていった。

 ふたりの根幹をなすのは、「人がおもしろいと思うものより、自分がおもしろいと思うもの」という考え方。他人に迎合しない、観客のウケを狙わない笑いだが、これがなかなか難しいのだという。ケンドーコバヤシさんは自分にはそれができないと言い、「その差は、芸人として、もうどうしようもないくらい圧倒的な差なんです(P135)」と語る。とにかく面白ければ正義、逆に言えば面白くないものは無価値という殺気じみたオーラをまとい、彼らは吉本興業が主催する若手オーディションイベントを勝ち上がり、やがてはM-1の大舞台に立つことになる。その生きざまに痺れてしまう。

 これは笑い飯の評伝であると同時に、M-1グランプリがいかにして怪物イベントへと成長していったのかという軌跡をたどったノンフィクションでもある。漫才人気が下降線をたどる中、M-1グランプリは島田紳助さんの鶴のひと声で始まった。その裏で奔走し、芸人たちに寄り添う朝日放送テレビスタッフの真摯な姿勢、舞台に立った歴戦の勇者たちの生の声に心が震える。

 全編を通し、圧倒されるのはその膨大な取材量だ。芸人、スタッフら80人以上を追いかけ、その声に耳を傾け、彼らに食らいつく著者の執念、妄念。さまざまな証言をもとに、笑い飯の、そしてM-1グランプリの実像を浮かび上がらせる並外れた構成力。M-1グランプリに負けない熱量が、この一冊に詰まっている。2022年は、タイタン所属のウエストランドが見事M-1王者に輝いた。余韻が冷めやらぬうちに本書を読めば、M-1グランプリの見方がまた変わるかもしれない。

文=野本由起