17歳で旅立った愛猫は、記憶の中で生き続けている! 感涙必至のエッセイ『猫がいなけりゃ息もできない』

文芸・カルチャー

公開日:2022/12/31

聞き書き世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし
猫がいなけりゃ息もできない』(村山由佳/集英社)

 子どもの頃から、猫が好きだった。祖父母の家には、ほぼ野良と化した三毛猫がいて、名前は「ミミ」といった。週末に遊びに行くたび、私はミミと野原で遊び、多くの歳月を共に過ごした。

 今現在、私は猫との生活が許されない状況にある。どういうわけか、20歳を過ぎた頃に突然、重度の猫アレルギーを発症してしまったのだ。それ以降、猫と暮らす人々が世に出す写真や文章、映像のみが、私が猫を愛でられる唯一の存在となった。

 村山由佳氏の著書『猫がいなけりゃ息もできない』(集英社)は、Web連載時から大きな反響を呼んでいた。私自身、すでに本書を3回は読んでいる。結末はとうに知っているのに、毎回こらえきれず、目からも鼻からも大量の滴が流れる。「悲しいから」ではない。著者が寄せる、愛猫「もみじ」への深い愛情に圧倒されてしまうからだ。

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 著者は元来の猫好きで、その「好き」の比重は、タイトルからも想像がつくだろう。メインクーンの「銀次」、黒のハチワレ「サスケ」、サビ色の三毛「楓」、ラグドールの「青磁」、そして、一際美しい三毛「もみじ」。全5匹との生活や出会い、著者自身の人生に触れながらも、本作では主に、17歳で旅立った「もみじ」を見送るまでの蜜月の時が描かれている。

 もみじの口内の異物に気づき、病院に連れて行ったところ「扁平上皮癌」だったことが判明したのが、2017年6月のはじめ。この病気の余命は、およそ3ヶ月。その事実と向き合いながら、もみじと過ごす日々について、著者はこのように心情を綴っている。

“どれもこれもみんな、今ここにあるのが奇跡みたいなことなのだ。”

 人は、すぐそばにある幸福には容易く慣れてしまう。しかし、どんな物事にも必ず終わりはくるもので、その時が近づいてきた途端、「今ここ」にある幸せの大きさに胸を締め付けられる。

 もみじは、生まれ落ちた時に著者が取り上げ、それから17年の間、ずっと著者と生活を共にしてきた。毎日何かしらを語りかけるたび、表情豊かに応えるもみじ。その関わりの深さを、「私なしでは夜も日も明けない子だった」と著者は綴る。

 著者にとってもみじは「戦友」であり、まごうことなき「家族」だった。

 家族を喪う。その喪失の辛さは、到底はかり知れない。しかし、著者はその悲しみに真っ向から向き合い、本書を綴った。

「村山さん、鬼のようなことを言いますけど、今の感情のすべてを書きとめておいて下さい。絶対に、今でしか出てこない言葉があると思うんです」

 共にもみじを悼みつつも、このように告げた連載担当者T嬢の言葉を、著者は真っ直ぐ受けとめ、当時の心情を全てメモした。その作業は、きっと少なくない痛みを伴っただろう。それでも、そうして書き残した言葉があったからこそ、もみじは今も、著者の文章を通して大勢の人々の中で生き続けている。

 本書を読むたび、もみじの背をそっと撫でさせてもらえたような心地になる。その手触りは、しっとりと滑らかで、ふかふかで、湯たんぽのように温かい。「もみちゃん」と呼ぶと応えてくれる声までもが聞こえてきそうで、私はいつも読了後、「もみちゃん、ありがとうね」と小さく呟いている。

文=碧月はる