芥川賞候補に選ばれた鈴木涼美の第二作小説! アダルトビデオ業界の化粧師として生きる女性が見ている景色は?
公開日:2023/1/20
芥川賞候補となった『グレイスレス』(鈴木涼美/文藝春秋)の「私」はアダルトビデオ業界の化粧師で、撮影が始まれば泥のように流れてしまう化粧を、女優たちにほどこすのが彼女の仕事だ。
「私」が過去に付き合った男たちはみな、遠回しに転職をすすめてきた。親に紹介できないとか、あなたがその仕事をする必要はないんじゃないの、とか。実際、「私」の父親は経営者でアーリーリタイアし、翻訳家の母親と海外で暮らしている。森の中にたたずむ、意匠をこらした西洋建築の一軒家で、どこか浮世離れした祖母とふたりで暮らす「私」は、わざわざその業界に足を踏み入れる必要がなさそうに見える。けれど転職をすすめられるたび、彼女が仕事ではなく、恋人に対する興味を失うのは、仕事を通じて女優たちの人生の片鱗に触れているからだ。
どうせすぐに崩れ落ちてしまう化粧にこだわりを見せ、男の性欲を煽るための顔だとわかっていながら、女優たちはそれぞれ、自分にとって納得のいくメイクを求める。そこに、〈身体も性も自尊心も数時間の間は放棄する彼女たちがそれでも明け渡さないもの〉があるのかもしれないと、「私」は思う。その瞬間に出会うことのできる自分は、幸福だとも。
だからといって、ポルノ女優の仕事もまた誇り高いものである、と言いたいわけじゃない。身体とともに心も摩耗していくその仕事を、「私」自身も“いいもの”だとは思っていない。けれど、そうやって「私」を業界から遠ざけようとする恋人たちの性欲が、女優たちの仕事を生んでいる。全肯定することも全否定することもできず、曖昧に目の前の景色を捉え続けるしかできない「私」の淡々とした心理描写は、読み手である私たちの倫理の枠組みを少しずつ外していく。
転職をすすめるかつての恋人たちに、悪意はもちろん、女優たちを否定する気持ちもなかった。でもだからこそ、彼らの欺瞞が浮かび上がる。〈微かな異臭をさりげなく自分から遠ざけるくらいなら、いっそ完膚なきまでに否定してみせて欲しい〉という一文は、恋人たちだけでなく、読み手である私にも向けられたものだと思った。否定するより残酷なその所作を、日常で私も、無意識のうちに幾度となく行っているはずだから。
〈性欲と善意を両手に持った老人たち〉という表現が作中にある。性欲はときに暴力に転じるし、それがあるから女優たちの仕事もなくならない。けれど同じくらい、彼らは純粋な善意も抱いている。どちらに比重を置くかは、おそらく、瞬間ごとに異なる。どちらかに規定することなど、できないのだ。メイクする側なのかされる側なのか、鏡越しに向き合う「私」と女優たちを、明確に隔てるものがないように。
汚されるために美しく顔を整えられる女優たちが身を置く場所は、確かにグレイスレス――神の恩寵なんてないように思える。けれど、無機質にしか感じられなかった聖月(みづき)という「私」の名前に、恩寵を与えたのは一人の女優の言葉だった。そんな祝福のような瞬間と、どうにもならない痛みの両方が、本作にはちりばめられている。
文=立花もも