自伝的エッセイ『東京百景』から10年。又吉直樹氏最新作『月と散文』は、松本大洋氏と豪華コラボ! 「すごい表紙、本になるな」
公開日:2023/1/20
3月にエッセイ集『月と散文』(KADOKAWA)の出版を控え、絶賛執筆中の又吉直樹氏にインタビューを行った。又吉氏のエッセイ集の刊行は、『東京百景』以来、実に10年ぶり。前作では世間に見向きもされない若手芸人の苦しい青春を綴ったが、その後の又吉氏は、芥川賞を受賞するほか、状況は一変した。芸人として、一人の人間として成熟した又吉氏は今、何を語るのだろうか。
取材=渡邊友美 撮影=三宅勝士
僕はエッセイを小説と同じように捉えている
――エッセイ集の出版は、『東京百景』以来10年ぶりとなります。こんなにも長い間、エッセイ集を出版しなかった理由は何なんでしょうか?
単発でエッセイを書いたり、連載で一年間毎月一本書いたりして、原稿自体はあったんです。有難いことにエッセイ集のお話もいただいたりもしましたが、自分の中でのタイミングが合わなくて、まとまらなかったといいますか……。ちょうど今、本にしたいなという気持ちが強くなったという感じですかね。
――10年の間にいろんなことがありましたよね。
もともとエッセイの連載を、雑誌とかWEBとかいろんなところでやってたんです。でも、小説を書くようになって、その作業時間を作るために連載を止めたっていうのもあって。……だからですかね? 10年って聞いて、「あれ、そんなに出してなかったか」と思って(笑)。
――又吉さんの書かれるエッセイは、文体や内容がかなり独特だと感じます。又吉さんにとってエッセイとはどんな存在なんでしょうか?
僕はエッセイを小説と同じように捉えているんですね。一人称の私小説にかなり近いものだと思っているんです。自分が20歳くらいでエッセイを書き始めた時に、参考にしたわけではないけれどイメージにあったのは、志賀直哉とか太宰治の短編小説で、あれをエッセイだと思っていたんです。例えば、我々がライブとかトーク番組で、身の回りに起こったことをお話しするのをそのまま文字に起こしたものは、エッセイではないというか。
――エッセイはエピソードトークではない、と。
エピソードを語るだけじゃなくて、そのエピソードが内包しているものも現実と等価値というんですかね。その出来事を体験した人間の中で起こっていることとか、その時の感情とか、現実に起こったこととは別に頭の中にあったこともまた、僕にとって大切なんですが、それを番組で語ったら、「早く先に進めてくれ、そんなんどうでもいいねん」って言われるじゃないですか(笑)。でも僕の考えるエッセイは、そういうところまで含めて書く自由がある。
――確かに、又吉さんのエッセイは現実と空想の境界が曖昧なものも少なからずあります。
もちろん、あくまでも僕の考え方で、人によってエッセイの書き方は違うと思うんですけどね。でも、第三者が客観的に見た出来事と、僕が体験して感じたことが、一致していないほうがいい。同じ出来事でも、実際には、自分の中でよりいろんなことが起こっているので、それを書きたいというのがあります。
――詩のようなものだったり、カルタだったり、書き方も自由ですね。
自由な形式で肩ひじ張らずに読みやすい、というのもエッセイの魅力だと思うんですけど、でも僕は、「このエッセイはこういう書き方でいこう」とか、「こういうテーマやからあえて今までとは違う書き方で書いてみよう」とか、そういうのも含めての表現かな、と思っているんです。だから、僕の書くものをエッセイと言っていいのか……そのようなわけで、タイトルは、あえて「散文」という言い方をしているんですけど。散文には小説も含まれますから。
月も散文も、不確かで変化はするけど、ちゃんと在るところが好き
――「月と散文」ってすごく素敵なタイトルですよね。
月がすごい好きなんですよ。満ち欠けがあるじゃないですか、新月から始まって徐々に……。で、毎日、出る場所も違ったり。常に変化しているけれど、そのすべての形と状態を「月」って言っているのが、すごく面白い。同時に、「散文」もすごく変化するもの、自由に変化させられるものだと思っています、小説でもありエッセイでもあるというところで。どちらも変化するし、実態があるようでなさそうで、でもどんな状態でも「月」って言えるし「散文」って言えるというのが、僕の中では響いているし、信用できるものというか。月も好きだし、散文も好きなんです。好きでずっと読んできたし、書くのも好きなんで。好きなものと好きなものを合わせたっていう。簡単に言うとそういうことになります。
――タイトル付けの理由もすごい素敵ですね。
ちょっとロマンチックすぎるかな、と思っているので、そう言っていただくと恥ずかしくもあるんですけど。
――月に興味を持ったきっかけは具体的にあるんですか?
小学校の時に、よく夜に公園でサッカーしていたんです、独りで。その時に、「一個だけめっちゃデカいな」と思って。月って、言ったら星じゃないですか。まあ月だからそれくらいのサイズがあってもいいとも思ってたんですけど、ある日突然「あれだけデカい!」と思ったら面白くなってきた、というのがきっかけですかね。
――これまで月を太陽と表裏で考えてましたが、確かに月は星ですね(笑)
イヤなことがあると、なんとなく月を見るんです。「これ大丈夫かな……」と思うことがあったとしても、うまくいく可能性を感じたいじゃないですか、この先うまくいくかもって。月を見ると、「あいつだけめちゃくちゃデカいねんから」って。月がある、あんなきれいなものを見ることができる、っていうのは本当は異常事態なんですけど、常態化しているからみんな驚かなくなっているんです。でも、もう一回驚き直したら、「あんなことがあるねんから、何とでもなるやろう」みたい気持ちにちょっとだけなれるんですよね。……月は変やな、と。月はかっこ良過ぎるし。いつでもありますしね。実態がなさそうで、不確かで変化はするけど、ちゃんと在るっていう。変化した状態で在る、っていうのが好きな理由ですね。
――好きな形はあるんですか?
満月も好きですし、三日月とか二日月とかああいう細いのも好きです。朔月(さくげつ)っていうんですかね、新月から一日目のすっごい細い……あれを足の小指の爪を切った形に似ていると勝手に思ってるんですけど。それも好きですね、見るたびに「爪やん!」って思うんですけど。あとは「満月になりかけ」。「明日、満月」っていうくらいのタイミングの月が結構好きで。
――どうしてですか?
みんな「満月」が好きじゃないですか、きれいだし。失恋した人も、逆に恋愛が始まった人も、満月になってないその月を見ても、「満月」ってことにしていると思うんです。だから満月じゃないのに日記に、「今日こんなことがあった。そして私は満月を見上げた」って書いたり思ったりしていると思うんです。だから、その、満月になり切っていないのが好きですね。僕もそういう経験があるんで。「満月ちゃうけどな」って思いながら満月ってことにした、みたいな。そういう思い通りにならないところもまた好きやったり。
すごい表紙、本になるなって思っています
――(笑)。10年前に出版された『東京百景』は、19歳になる年に上京されて、そこから芸人として世間に認知されるまでの「ドブの底を這うような日々」が描かれています。それから10年経って、今回はどのような内容が書かれているんでしょうか。
『東京百景』は、吉本興業が出していた「マンスリーよしもと」という冊子で書き始めた文章だったんです。で、その冊子は劇場の楽屋とかに置かれていたりしたんです。ライブ情報が載っていたりするんで、一番の読者は、吉本の芸人と社員さんと芸人の親で。なのに、そこで書いた文章と思えないくらい、暗いんですよね。芸人が楽屋で読むような文章なのに、「嫌なことがあって目黒川まで歩いて行って泣いてた」とか書いてて。客観的に見て、20代の芸人でそういう奴をあんまり見たことがないんで、アホやなと思うんですけど、正直やなっていうか面白いなとも思うんですよ。そこからだんだん大人になってきて、年相応の暮らしを送れるようになりましたし、お仕事もいただけるようになりました。となると、若者に希望を持たせたいじゃないですか。苦しい若い時期を過ごして大人になったら、楽しいことがあるっていうところを体現しないといけないと思って、余裕のあるふりを結構してたんです。でも結局、自分の芸風なのかもしれないですけど、書いてるとだんだん「でも、嫌なことあるなあ」みたいな。平気なふりをしているけれど、これイヤやな、あれイヤやなみたいなことが結構出てきた。
――テレビでレギュラーを持とうが、芥川賞を受賞しようが、苦しさは変わらない?
行ったり来たりというか。大人になった自分の変化を見てください、というところと、自分でもコントロールできひん部分で、ほとんど変わっていない部分のその両方が、『月と散文』では書けたかな、と思います。余裕がだんだん剥がれていく感じもあったり、行ったり来たり。大人やからこうせなな、みたいなことがある中で、でも相変わらずの部分もあるな、っていう風に思いましたね。
――青春の後に、いきなり成熟があるわけではないですもんね。
あるあるなんですけど、例えばテレビのお仕事とか、売れてない若手だった時よりも、売れてからのほうがストレスのたまり方が激しいんです。現場を含め楽しいんですけど、先輩たちに聞いてもそうやったみたいで。だから「世に出たから楽になる」というのはもしかしたら幻想かもしれません。でもそんなことを僕らが言ったら、これから世に出ていく後輩たちはやる気なくなるじゃないですか。だからみんな平気なふりしている。でも僕自身、体に影響が出たりして、「みんなそうやで」って先輩に励ましてもらったりして。みんなそうやねんって。
――それはプレッシャーなんですか?
ちゃんと科学的な根拠を求めていくと、ただ単に環境が変わっただけでそうなっているのかもしれないですけど。『東京百景』の頃の自分は、「売れてる人ええな」とか「会社に勤めて収入のある同世代の人とかうらやましいな」と思っていたんです。でも、僕が見上げていた人たちにも日々の暮らしの中での苦しみとか不安もあったはずですよね。そういうことにいろいろ気付けたかもしれないですね、この10年で。
――若者ではないけれど、かと言って、大人にもなり切れないということでしょうか。
『東京百景』がわかりやすく青春の話だとしたら、「月と散文」はその後……。大人になって、あんまり文句も言わず……いや、言うてるか(笑)。まあまあ言ってたりもするんですけど、未熟ながらも、ちょっとは成長したいなという気持ちもある日々の話ですね。でも、一気に変われるわけではない。『東京百景』も振り返ると、変なこと書いてたり、書き方を探ってたりしてるな、と思うんです。でも今回は、一応エッセイを書き始めて20年を超えたんで、内容も書き方も、自分のできる表現へのこだわりみたいなものは、より出ているんじゃないかと思います。
――又吉さんは「紙の本」への愛着を非常に持ってらっしゃる方ですが、今回は本として、どんなこだわりや仕掛けがあるんでしょうか。
僕の希望で、カバーの絵を松本大洋先生にお願いしたんです。今、連載中の『東京ヒゴロ』を読みまして、なんというか良い意味で打ちのめされたんです。創作することの不安も苦しさも混沌も喜びも克明に表現されているので。読んでいる自分の中の表現欲求が高まる感覚もありました。これは凄い作品だと思い、作中の登場人物達と共に駆け抜けたいという気持ちもありました。でも、松本大洋先生は連載を今まさに抱えてらっしゃるので。「現実としては難しいやろうな」と思ってたんです。でも描いていただけることになって……もう、こんな嬉しいことはないです! 今まさに描いていただいてるんですけど、すごい表紙、本になるなって思っています。
――松本大洋さんにお願いした、その理由はなんですか?
もともとずっとファンで、作品を読んできたんです。なんかこう、松本大洋先生の絵は「人間の体温」を感じさせてくれるんです。「この人物は口内炎できたりするやろな」とか、「転んで怪我してかさぶたを早めに剥がして失敗しそうやな」とか。血が通っているんですよね。それに、懐かしさというか……それは物語の背景の時代が懐かしい、ということではなくて。身に覚えのある温もりと痛みと哀愁みたいなものが強く伝わってきて、僕には「人間そのもの」に見えるんです。そういうエッセイが書けたらいいな、一つの理想形だなと思うんです。松本大洋先生の絵のような、温もりがあって痛みがあって哀愁もある、そのうえで刺激もある作品を書くことが、目指しているところでもあり、もし描いていただけるならという気持ちでお願いしました。
――すごいコラボレーションですよね。
最高ですよね。恵まれているなあと思います。
――エッセイ集で四六判上製っていうのも重厚で珍しいな、と思うんですが。
いろんな本の形があっていいと思いますし、僕自身いろんな本の形を作って来たんで、それこそ何がイヤということはないんです。ただ今回は、エッセイとはいえ、小説を読むように手に取ってほしいという気持ちもあるんです。『月と散文』は、読みやすい話もあるんですけど、中には小説的な書き方を選んでいる話もあるので、時間がかかるもの、読み手に体力を求めるものもある。そういう距離感で楽しんでもらえたらというのもあって、この仕様になりました。
――仕上がりが楽しみですね!
ここからさらに仕上げていくところではあるんですけど、それぞれの話が大切なのは当然として、話がどのように連鎖しつながっていくのか、並べ方や配置にもこだわって作っていこうと思います。句集もそうなんですけど、一つ一つを取り出したら特に印象に残らない句が、前後を挟まれたときに、急に輝きだすことがあったりするので。サッカーで言ったらポジションみたいな感じですね。ちゃんと配置させる。最初にフォワードがいて中盤がいてディフェンスがいる。そういうイメージですね。だいぶW杯に感化されてますけど。