雲を見上げ「お話を作ってみなさい」。楓の幼少期、祖父はそう言って想像の物語を紡いでくれた/名探偵のままでいて②
公開日:2023/1/31
第21回『このミステリーがすごい!』の大賞に輝き、早くもベストセラーに! 2023年話題のミステリ小説『名探偵のままでいて』をご紹介します。著者は人気ラジオ番組の構成作家としても活躍中の小西マサテル氏。かつて小学校の校長だった祖父は、レビー小体型認知症を患い、他人には見えないものが見える「幻視」の症状に悩まされていた。孫娘の楓(かえで)はそんな祖父の家を訪れ、ミステリをこよなく愛する祖父に、身の周りで起きた不可解な出来事を話して聞かせるように。忽然と消えた教師、幽霊騒動、密室殺人…謎を前にした祖父は、生き生きと知性を取り戻し、その物語を解き明かしていく――。古典ミステリ作品へのオマージュに満ちた、穏やかで優しいミステリ小説『名探偵のままでいて』より、第1章を全7回でお届けします。今回は第2回です。祖父を見舞った楓は、帰路の電車で、ふと幼い頃の祖父との会話を思い出していた。
2
帰路、東横線に揺られながら車窓に目を移すと、まるで表情のない顔が映じていた。
せっかく作った笑顔だったが、もうそのかけらさえ残っていない。
すでに空は薄めの口紅をひいたようにたそがれていた。
秋口とあって積乱雲は姿を消し、さまざまなかたちの雲が点在している。
楓の胸に、ふと、祖父との記憶が去来した。
二十三年前、四歳の楓。
縁側で彼女は祖父の胡坐に乗っかりながら、茜色に染まる空を見つめている。
祖父が、知性を漂わせる澄み切った双眸から視線をひざ元に落とす。
「楓。あの辺りの雲は、それぞれなにに見えるかい。それらをすべて使って、ひとつのお話を作ってみなさい」
今思えば、落語の三題噺(さんだいばなし)だ。
楓の想像力の羽をはばたかせようとしたのか――
あれは祖父なりの情操教育のつもりだったのだろう。
楓は間髪いれずに答える。
「あのくもは、ちっちゃいおじいちゃん。あっちのくもはね、ひらべったいおじいちゃん。それでね、えっと。いちばんおっきなくもは、おじいちゃんよりもふとったおじいちゃん」
それじゃお話を作れないだろう、といいながらも祖父は相好を崩した。
そして驚いたことには、仕方ないとばかり楓の代わりに『さんにんのおじいちゃん』というタイトルの童話を即興で作ってしまったのだ。
細かいストーリーはよく覚えていない。
だが、食いしん坊の「ふとったおじいちゃん」が砂糖と間違えて世界中の風邪薬を飲んでしまい、さんざん馬鹿にされたものの、結果的には世界一長生きした……というような結末だったことは記憶に残っている。
たぶん、粉末の苦い薬が苦手だった楓への教訓のような意味合いがあったのだろう。
でもなにしろ語り口がとびきり面白いものだから、楓は手を叩いて喜んだものだ。
「ほら、楓。見てごらん」
空を見上げると、「おっきなくも」――「ふとったおじいちゃん」だけが残っており、「ちっちゃいおじいちゃん」と「ひらべったいおじいちゃん」は文字どおり雲散霧消していた。
話の結末どおりではないか。
あっけにとられた楓は、祖父と、空の「ふとったおじいちゃん」を、きょときょとと幾度となく見比べたものだ。
思えばあのときの祖父は、ひそかに雲の様子を確かめつつ話を紡いでいたのだろう。
そして「ちっちゃいおじいちゃん」か「ひらべったいおじいちゃん」が最後まで残っていたならば、話の展開は大きく変わっていたに違いない。
「ね、おじいちゃん。もっと、かえでにおはなしして。じゃないと――」
幼い楓は上を見上げて、祖父の喉ぼとけのほくろから生えている毛を引っ張った。
すると意外とあっさり抜けてしまったので無性におかしくなり、大笑いした記憶がある。
あのときひょっとしたらわたしは、と楓は思った。
(おじいちゃんの知性の栓を抜いてしまったのかもしれない)
祖父の様子が目に見えておかしくなったのは、ほんの半年前のことだった。
散歩に付き合ったとき、歩幅が明らかに小さくなっていたのだ。
「おじいちゃん、見かけより太ってきちゃってるんじゃないの。足が付いていってないよ」
祖父は首を傾げ、歳だな、と自嘲気味に苦笑してみせた。
楓も最初は体重過多か、単に加齢のせいだと思った――いや、思おうとした。
だが、そこからの進行は速かった。
大好きなコーヒーを飲むと、カップを持つ手がぶるぶると震える。
家を訪ねると、いつも書斎の椅子で、うつらうつらと船を漕いでいる。
姿勢は常に猫背がちとなり、なにをするにも動作が緩慢になった。
いや、それよりもなによりも。
楓はなによりも、あの日の衝撃を一生忘れることができないだろう。
深夜にスマートフォンが鳴った。
寝ぼけ眼をこすりながら電話に出ると、若い男性とおぼしき相手はなぜか言い辛そうに〈あのう、救急隊のものですが〉と名乗った。
そして恐縮した様子で何度も言い淀みながら、こう続けたのだった。
〈楓さんご本人でいらっしゃいますか――あぁ、やはりそうですか。あのですね、壁に貼られてあった緊急連絡先のメモに楓さんの名前があったものですから、こうしてお電話させていただいたのですが。実はここにいらっしゃる楓さんのおじいさまがですね、119番通報をされまして。それで、えぇと――そのですね〉
「どうしたんでしょうか」
〈『血まみれの楓がここに倒れている』と仰っているんです〉
かかりつけのクリニックでは、パーキンソン病と思われるがはっきりしたことは分からないので大きな病院に行ったほうがいい、と勧められた。
大学病院に行き、CTを含め、詳しい検査を受ける。
結果――若い女医は、椅子で昏々と眠ったままの祖父をよそに、こともなげに告げた。
「レビー小体型認知症ですね」