読むと大河がもっと面白く! 徳川家康の新たなイメージ像に迫る、家康に大きな影響を与えた人物たち
公開日:2023/2/5
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」で有名な徳川家康。今年は大河ドラマの題材にもなっている。創作作品で徳川家康は「腹の中が読めないタヌキじじい」として狡猾な印象で描かれることも。現在放送中の大河ドラマでは、毎週「どうする?!」と頭を抱えている。家康初心者である私は親しみを感じている一方、歴史好きの友人はこれまでのイメージとの違いに驚いていた。
そんな新しい家康像が登場した今年だからこそおススメなのが、歴史研究家のねずさんこと、小名木善行氏が書いた『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』(徳間書店)。本書は、家康ではなく彼を取り巻く人物たちをピックアップして、家康にどう影響を与えたのかを教えてくれる。その中から特に気になった3人のエピソードを紹介しよう。
教育係・太原雪斎(たいげんせっさい)
今川義元に仕えていた太原雪斎。臨済宗の僧侶で、幼少期に今川家の人質となっていた家康(幼名は竹千代)の教育係を務めていた。竹千代の父・松平広忠は織田家との戦の際、今川家に応援を要請。援軍を出す条件として、竹千代は今川家の人質となった。しかし、今川家の領地である駿府に向かう船で急襲にあい、織田家に竹千代が奪われてしまう。この竹千代を取り戻したのが、太原雪斎の交渉だ。
すぐ報復として戦を仕掛けてもおかしくないところ。だが、今川の総大将だった太原雪斎は、織田家の安祥城を打ち落とすも、「城主の織田信広は殺すな」と命じた。そして、信広と竹千代の交換を交渉し、人質の竹千代を取り返す。
それだけでなく、織田家にとって重要な拠点であった安祥城、三河の地も同時に手に入れた。目先にとらわれず、大きな目的のために手を打ち成功した太原雪斎。彼と接し学んだことが、家康の名言「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」につながったのではないだろうか。
正妻・築山御前
築山御前(結婚時は瀬名姫)は、家康の生涯ただ一人の正妻。築山御前は、今川義元の姪にあたる。桶狭間の戦いで織田軍に今川義元が討たれた後、織田信長と家康が同盟を結んだことで、築山御前の両親が自害。今川を裏切り、親の仇となった家康といることは両親への裏切りになると考えた築山御前と、彼女に顔向けできない家康は離れて暮らすことに。
その後、「築山御前が武田家と内通している」という密告が織田信長に伝わったことで、家康は妻か織田家とのつながりかを選ぶ苦渋の選択を強いられた。この事件は家康の「読みの甘さ」が招いたもの。離れて暮らしたことで、築山御前の気持ちや実際の状況を知ることができず、疑いをかけられる前に対応できなかった。家康はこれを悔やみ「尼寺へ逃がしてやれたらよかった」と語ったという。その後、家康は先んじて情報を集め、事が起きる前に手を打ち、安全な策を優先するようになった。
秀吉の側室・淀君
豊臣秀吉の側室である淀君は秀吉との間に息子・秀頼を産んだ。秀吉には秀次という養子がいたが、実子可愛さに秀次を陥れ自害させてしまう……というのが通説。だが、実のところ秀頼は秀吉の子ではなかったという説がある。
淀君が秀次を追い詰め、秀頼が確実に後継者になるよう手を回したのでは、というのが著者の説だ。秀次は妻子や周囲の人間を引き合いに脅され、自害することになる。そして秀次の死後、妻子をはじめ周囲の人間も無惨に処刑されてしまったという。
このとき、家康は豊臣政権下の内大臣。殺せと命じられれば従うしかない立場だ。しかし実際は、秀次ゆかりの人物を何人も匿い、逃がしている。近くでその状況を見て、思うところがあったのだろう。淀君が、自分のためなら誰かを容赦なく追い詰める人であることも感じたはずだ。
そして、秀頼が秀吉の子でないとすれば、いつかそれが戦の火種になるかもしれない。そう見越した家康は、大坂夏の陣で淀君と秀頼を自害に追い込んだのだろうと本書は語っている。
本書を読んで感じたことは、歴史は点で捉えることはできず、大きな流れを読み解かなければいけないということだ。ある一部分だけを切り取って「家康はこんな人だった」と考えるのは難しい。だから本稿で紹介した人物たちが大河ドラマで描かれたとき、こんな背景があって、家康に影響を与えたという見方ができ、より楽しめるだろう。『どうする家康』の副読本としておススメしたい。
文=冴島友貴