余命僅かな蕎麦屋の主人が、過去の「悪業」とともに思い起こす人生とは――浮世の「敗者たち」をそっと描く、人情時代小説

文芸・カルチャー

公開日:2023/2/22

侠
』(松下隆一/講談社)

』(松下隆一/講談社)は、江戸の本所を舞台にした時代小説だ。

「侠」とは、「男らしく勇ましい行いをすること。また、その気質」という意味だそう。ただ、そういった辞書的な意味だけではなく、「侠」という言葉が内包する趣を、どこまで感じ取れる人がいるのだろうか。年々その趣は過去の感覚になり、忘れ去られてしまっているように思えて、私は少し寂しい。

 だからこそ、この作品から漂う「侠」――個人的に「侠」には、「粋」や「哀愁」を感じるのだが――が、池波正太郎や藤沢周平、山本周五郎といった偉大なる先人の趣を受け継ぐ、稀有な作品だと感じ入った。

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 あらすじはこうである。江戸の深川で、しがない蕎麦屋を営んでいる齢六十の銀平(ぎんぺい)。銀平は病に侵されており、自らの命が永くないことを悟っていた。

 ある時、銀平は清太(せいた)と出会う。清太は賭博に敗けた挙句、賭場のあがりを持ち逃げし、命からがら銀平の店に逃げ込んだ、堅気の道から外れようとしている青年だ。そんな清太に、銀平は過去の自分を重ねる。銀平もかつてやくざ稼業に足を踏み入れた身の上であり、また、伝説的な博奕打ちでもあった。

 銀平は、賭場の金を持ち逃げした清太に落とし前をつけさせる。その後、銀平になついた清太は、彼の蕎麦屋で働き始め、汗水垂らして金を稼ぎ、まっとうな生活を送り始めたかに思えたのだが……。ある晩、銀平の思いを嘲笑うかのように豹変する。

 しかし銀平は、どこか冷めた視線で清太の裏切りを受け止める。

 銀平にもまた、誰にも話したことのない、過去の「悪業」があったのだった――。

 本作に登場する人物に「勝者」はいない。みな、浮世の敗者だ。

 敗けた理由は、ほとんど自分のせいではない。災害や貧困、思いがけない事件などがきっかけで敗けてしまった人たちばかりである。

 もちろん、過酷な生い立ちだったとしても、持ち前の根性で勝者になれる人もいるだろう。しかし本作の人々は違う。もしかしたら心が弱かったのかもしれない。いや、多分「弱い人々」なのだ。それも人間らしくて、いじらしいと思えた。

 また本作からは、著者の卓越した描写力が感じられる。

 四季の移ろいと共に、江戸の様子が描かれるのだが、例えば、両国花火大会の賑わい。その喧騒の中を、人波に押し流される銀平の様子は、彼の動揺する心情や、残り少ない命の弱々しさを情景から表現しているかのようだった。銀平の作る蕎麦の出汁の匂いが、小説の中から本当に漂ってきそうな筆力も印象的である。

 描写は簡潔で読みやすく、一つ一つの文章が心地よい量で、江戸の景色、銀平の質素な生活が、まざまざと目に浮かんだ。著者の経歴を見ると脚本も書いているそうだ。だから小説の味わい深さの中に、映像が浮かぶような描写が出来るのかもしれない。

 さて、本作のラストは幸せな結末ということになるのだろうか。人によっては残酷だと感じるかもしれないし、物悲しく思うかもしれない。しかしどう感じたにせよ、淡い希望が滲む、そんな終幕だったと、私は思う。

文=雨野裾