「ディスレクシア」による生きづらさとは。読み書き困難な学習障害に「努力不足」のレッテルを貼られて生きる者の物語『川のほとりに立つ者は』
公開日:2023/3/1
生まれつき備わっているものは、人によって違う。だが、その前提を私たちは忘れがちだ。自分にとっては造作もないことが、「できない」人もいる。それを見て「努力が足りない」とジャッジする人は、存外多い。
反対に、「“できない”相手への対応がわからない」ことで、頭を悩ませる人も多いだろう。人の想像力が及ぶ範囲は、自身の体験の範疇であることがほとんどだ。「個」に合わせた対応には、知識と忍耐力のほか、時間とマンパワーが要る。
寺地はるな氏による小説、『川のほとりに立つ者は』(双葉社)には、相反する両者の葛藤が丁寧に描かれている。
本書の主人公・清瀬は、カフェの店長として連日超過勤務に追われていた。忙殺される毎日にあって、仕事の要領を得ないスタッフに苛立ちを募らせる日々。そんなある日、病院から1本の電話が入る。電話口で聞かされたのは、清瀬の恋人・松木が大怪我をして運び込まれたとの知らせだった。病院に駆けつけた清瀬は、そこである人物と出会う。その人物を通して、清瀬はこれまで自分が「見ようとしてこなかったもの」を痛烈に突きつけられる。
“誰もが同じことを同じようにできるわけではないのに、「ちゃんと」しているか、していないか、どうして言い切れるのか。”
松木が怪我をする前、とある店の臨時休業を知らせる張り紙を見て、清瀬が「雑な字やなあ」と言い捨てる場面がある。その言葉を聞き、松木は憤りに近い感情を抱く。それには、松木の友人がディスレクシア(発達性読み書き障害)であることが起因していた。
ディスレクシアとは、全体的な発達には遅れがないにもかかわらず、文字の読み書きのみに困難が生じる学習障害である。周囲から気付かれにくい障害であり、往々にして「怠け」や「努力不足」と判断されてしまうことから、本人の自己肯定感が著しく傷つけられるケースも多い。
与えられた課題が同じでも、クリアに要するエネルギーは人それぞれだ。努力量が10で足りる人もいれば、100を振り絞っても目標に届かない人もいる。後者が、その現実に打ちのめされて道を踏み外した時、責めるのは容易い。だが、責める側は、自身が持つ優位性をどれだけ自覚しているだろう。
“ただちょっと運がよかっただけのくせに、偉そうに道端で説教する気?”
本作において、私がもっとも共感を覚え、もっとも疎ましさを感じた人物の言葉だ。
“生まれつき備わっているもの”は、能力だけにとどまらない。生育環境の違いは、その後の人生に大きく影響する。私の生育環境は、この人物と少し似ている。だからこそ共感し、だからこそ「許せない」と感じた。そんな私は、どこまでも傲慢だった。結局、ジャッジしている。今の自分が持つ優位性から、都合よく目を逸らして。
変えられるものがある一方で、変えられないものもある。「don’t」なのか、「can’t」なのか、知り得るのは本人で、決めるのも本人だ。周りじゃない。自分のことならそう思うのに、他人のことになった途端、簡単に忘れてしまう。きっと、そのほうが楽だからだ。自分の価値観を「普通」に据えれば、それ以外のケースは自動的に「異質」なものに放り込まれる。そうすれば、考えずに済む。
「それでいいの?」と、言われた気がした。これまで散々間違い、傷つけてきた人たちの顔が浮かんだ。胸が軋んだけれど、私はその痛みを忘れてはいけないのだと思った。
人は、人の痛みを本当の意味では知り得ない。それでも手を取り合い、共に生きることを諦めたくない、と思う。本書には、そのための道標となる言葉がぎっしり詰まっていた。
『川のほとりに立つ者は』――本書のタイトルに続く言葉、その奥に連なる清瀬の想いが、脳裏に焼き付いて離れない。深夜2時、とあるビジネスホテルの一室で、枕が濡れるのも構わずに凝視し続けた最後の頁。そこに記された全ての言葉を、強く握りしめた。この灯りを手放すことなく生きられますように。ただまっすぐに、そう祈りながら。
(文=碧月はる)