50代になり「死」は具体的に恐ろしいものになった。猫沢エミと吉本ばななが語る、大切な存在との別れと死生観【『イオビエ』発売記念対談】

暮らし

公開日:2023/3/9

猫沢エミさん吉本ばななさん

 文筆家・猫沢エミさんの愛猫イオちゃんが、闘病の末、昨年急逝した。そんなイオちゃんとの運命的な出会いから、仲睦まじく幸せな日々、そして訪れた永遠の別れを、猫目線で幻想的に描いたのが、猫沢エミさんの最新作だ。タイトルは、『イオビエ ~イオがくれた幸せへの切符』。

 同書について、昨年12月の発売直後に「気持ちがわかりすぎる、よくぞ書いてくださった」と共感の声を寄せたのが、これがきっかけで親交が始まったという、小説家・吉本ばななさんだった。

 吉本ばななさんは、自身の作品のなかでも、大切な存在との別れ、それを受け入れ生きるということについて繰り返し描いてきている。

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 共にどうぶつと暮らし、家族として惜しみない愛情を注ぎ続けるおふたり。どうぶつとの別れの向き合い方、そして50代を迎えた今考える「生きること」「死ぬこと」についてを、じっくりと語り合ってもらった。

(取材・文=中前結花 撮影=金澤正平)

「特別な縁」を感じる相手との別れ

──昨年末に、吉本さんがTwitterでこの本について「よくぞ書いてくださった」と投稿されているのを拝見しました。深く共感されたのは、特にどういったところでしたか?

吉本ばななさん(以下、吉本ばなな:わたしも、どうぶつと本当に長い間暮らして生きてきましたから。別れるときのあの何とも言えない気持ち、それからどうぶつが教えてくれるたくさんのことについても、「そうそう、そうだよね」という思いで読ませてもらいました。

猫沢エミさん(以下、猫沢エミ:ああ、ありがとうございます。わたしがお別れしたのはイオが2匹目だったんですが、ばななさんはこれまでものすごくたくさんのお別れがあったでしょうね。

吉本ばなな:そうですね、子どもの頃から別れの連続でした。ただ、もちろんどれも全部悲しいですけれど、「ちょっとこれは特別だな」と縁を感じるような子ってやっぱりいますよね。まさに猫沢さんにとって、イオちゃんのような。縁が深い、というんですかね。わたしの場合は、15年ほど一緒にいたフレンチブルドッグがそうでした。お母さんのお乳を1日も飲んだことのない子で、生まれたときから肌がボロボロで。だけど本当によく頑張って生きたんですよ。最期は辛くて辛くて。気持ちをどこに持っていけばいいのかわからなかった。周りの人には「充分、生きたじゃないの」「他にも犬も猫もいるじゃないの」って言われるんですけれど、わたしは到底そんなふうに思えなかった。「どうしてこの子が特別だったの?」「可哀想な子だったから?」なんて言われても、きっとそういうことでもないんですよね。

猫沢エミ:そうそう、そうなんです。イオについても「1年半しか一緒にいられなかったから?」「壮絶な闘病生活があったから?」とみんなが理由づけしようとしてくれるけれど、そんなんじゃない! と思うんですよね。不思議ですけど、彼女とは実は出会うことはずっと決まっていながら、なかなか出会えずに過ごして、ようやくやっと巡り会えたんじゃないか。そんなふうに思うほど、特別な縁を感じていたんです。

吉本ばなな:そういうことって、きっとあるでしょうね。よくわかります。

どうぶつは、わたしたちだけに愛情をくれる

猫沢エミさん吉本ばななさん

──おふたりは、どうぶつを家族に迎えるとき、いちばんにどんなことを考えられますか?

吉本ばなな:たとえば、子育てのいちばん大変なときと一緒にいる時間が重なってしまったそのフレンチブルには悪いことをしたな、もっとなにかしてあげられたんじゃないか……と思いますし、両親を見送ったときと重なった子に対してもそうでした。だからいっぱい反省もして、「次に飼う犬は、この世で一番幸せな犬にしよう」とか、「次の猫には、世界一穏やかな暮らしをしてもらおう」だとか。そういう気持ちで迎えますよね。それで実際に、蝶よ花よ……と丁寧に扱いすぎて、今うちにいる子たちは本当にわがまま放題になっちゃったんですけどね(笑)。

猫沢エミ:あら、大事に大事に扱われているのがわかるんですね(笑)。だけど本当にそうですね、彼らは言葉で話すことができませんから、こちらが慮って、最大限に気持ちを汲む必要があって。どんなに考えた末のことであっても「あれで良かったのかしら」「どう思ってたんだろう」と後悔は尽きません。少しでも幸せな時間を過ごせるように、と思いますね。なんたって、もう本当に純粋な、目眩がするような愛をくれるじゃないですか。それはそれは真っ直ぐな。それだけに、別れは相当に辛いですよ。

吉本ばなな:うんうん。真っ直ぐというのは本当によくわかる。逆に人間っていうのは、自分が知らないその人の世界をしっかり持ってますもんね。亡くなったときに初めて、愛人がいたことがわかったりね。「実は若いとき付き合ってました」なんて人が出てくるようなこともあるじゃないですか。たとえ親であっても、子であっても、自分が見て知っていた姿は、その人にとって「一面」にしか過ぎないかもしれない。「あ、この人の人生にも色々あったんだ」なんて実感することもある。だけど、どうぶつは基本的にわたしたち家族だけですから。わたしたちだけの愛情しか知らないし、種族が違うというのにわたしたちだけに愛情をくれて。

猫沢エミ:そうなんです。だから、比べるものじゃないでしょうけど、親が死んだときよりも喪失感や悲しみは本当に本当に大きくて。一緒に生きてくれた時間を通しても、別れを通しても、たくさんのことを教わりましたよ。こちらが与えてもらうことばっかりですよね。

吉本ばなな作品と「死」について

──猫沢さんは、イオちゃんと出会われたあとすぐに、お母様とのお別れを経験されたんですよね。

猫沢エミ:はい。ちょうど保護猫としてイオと出会ったとき、わたしは母の介護の最終期を迎えていたんです。母の介護をしながら、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるイオの面倒も見始めました。どちらも消えそうな命ではあるけれど、どんなに手を尽くしても消えていってしまう母の命と、なんとか命を取り戻そうとしている懸命なイオの姿。スライドするような命の交代劇を目の前にしました。

吉本ばなな:同じ時期にそれを経験されるのというのは、大変な反面、少し励まされることもあったんじゃないですか。苦しみを分け持ってくれるような。

猫沢エミ:不思議なことですけど、まさにイオの存在があることで、自分のバランスをなんとか保つことができたような面もありましたね。まるで両腕に母とイオ、同じ重さの命を預かってバランスを取っているような。「死」について、これでもか! というぐらい向き合った時間でした。

 わたしは、高校生のときに初めてばななさんの小説に出会って、もうこれまで、いくら心を震わせたかわからないのですが、いつもどこか作品に「死の匂い」や「夜」のようなものを感じます。それは、なにかご自身の経験から来るものだったりしますか?

吉本ばなな:若いときに身近な人を亡くした、という特別な経験があるわけではないんですよ。どうぶつたちだけですね。ただわたしの両親は、よその家のご両親より高齢だったんです。友だちのお父さんやお母さんと比べると10歳ぐらい歳上だったの。だから、小さいときから「絶対うちの親が早く死ぬ」って、ずっと思ってたんですね。姉は「ずっと先のことだよ」なんて言うんですけど、わたしはそれが怖くてたまらなかった。それで、実際に3年ほど前に親が死んだときに「やっぱりずっと先じゃなかったじゃん」って思ったので、子どもの頃の感覚って間違ってなかったわと思いましたよ。

猫沢エミ:その気持ちもまた、痛いほどわかります。それがいくつであってもそうなんでしょうね。

「死生観」は自分で作っていくもの

猫沢エミさん吉本ばななさん

──この『イオビエ』からは、イオちゃんを亡くされた喪失感とともに、「死」を暗く悲しいだけのものにしたくない……といった想いを感じ取ることもできました。大切な存在たちとの別れをいくつもご経験されて、おふたりの「死」への向き合い方は変わってきましたか?

猫沢エミ:イオを亡くしたときに、わたしは本当に気持ちのやりようがなくって。ひとまずの納得感、心の拠り所のようなものが欲しくて、死生観に関する本をたくさん読んでみたんですよ。宇宙論から始まるものもあれば、宗教からのアプローチのものもありました。だけど、頭では理解できるんですけど、読み終わったときに、「それで、この悲しみはどうすればいいの?」とやりきれない気持ちになってしまって。そのときに、死生観っていうのは、他者のものを勉強するんじゃなくて、自分で作っていくものなんだと思い至ったんです。それでこの本の執筆に入りました。

 見送り方にしても思うところがあったんですよね。どうして生きてる間はひとりひとり全然違う人生を選んで、職業を選んで、好きな服を着て、個性を持って過ごしてきたのに、死んだあとはみんな同じような戒名をつけられて、同じところに行くと考えられるのか。みんながみんな、冷たい墓石の下に置いたりしなくてもいいんじゃない? と考えるようになりました。

吉本ばなな:それは本当にそうですね。もっと、その人らしくあっていいだろうし、同じである必要はどこにもないですね。最期まで意志を尊重したいし、自分だって死ぬまで自分らしくありたいと思いますよ。生きると死ぬはそういう意味では続いているんだと思う。

猫沢エミ:みんな死ぬ、漏れなく死ぬ。愛する者との別れにも抗えない。だとしたら、やっぱり死とか命っていうものに対して、見方を変えるしかないですもんね。

吉本ばなな:うん、怖いけどね。いくつになったって「死ぬ」って怖いですよ。子どもの頃みたいな「漠然とした恐ろしさ」ではなくて、50代になった今、自分の死にも誰かの死にも、もっと「具体的な恐ろしさ」がありますよね。痛いとか苦しいに対するものとか、動けなくなっていくつらさとか。その恐ろしさって消えないと思う。生きてる限りそういうものなんでしょうね。

 だからこそ、身近な、暮らしを共にしてくれているどうぶつたちとの時間も本当に大切で。ついつい今は、甘やかしすぎちゃってるんですけどね(笑)。

猫沢エミ:充分すぎるほど幸せをもらってますから、それは仕方がないんでしょうね(笑)。

<プロフィール>
猫沢エミ
ミュージシャン、文筆家、映画解説者、生活料理人。2002~06年、一度目のパリ在住。2007年より10年間、フランス文化誌『Bonzour Japon』の編集長を務める。超実践型フランス語教室《にゃんフラ》主宰。著書に『ねこしき』(TAC出版)、『猫と生きる。』『パリ季記』(ともに扶桑社)など多数。2022年2月より愛猫を引き連れ、二度目のパリ在住。
Instagram:@necozawaemi

吉本ばなな
1964年東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1988年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、1989年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、1995年『アムリタ』で紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞、2022年『ミトンとふびん』で谷崎潤一郎賞を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版され海外での受賞も多数。近著に『吹上奇譚 第四話 ミモザ』など。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。