「ママはいつも『勉強するな』と押し付けてくる」青木さやかが語る“娘”と“嫌いだった母”のあいだで変化する心
公開日:2023/3/4
2021年、自身の母親との確執を赤裸々に描いたエッセイ集『母』を上梓して話題となった青木さやか氏が、このたび新著『母が嫌いだったわたしが母になった』(KADOKAWA)を刊行。WEBザ・テレビジョンの連載「娘とわたし」に、大幅に書き下ろしを加えた本書の執筆に、どんな思いを込めたのか。母との関係に悩んだ過去を乗り越えた今だからこそ語れる、著者にとっての家族観や子育ての悩みについてお話を伺いました。
(取材・文=碧月はる 撮影=後藤利江)
いざという時は、人に助けを求める元気すらない――多くの母親が「出せない」と感じているSOS
――本書では、思春期を迎える娘さんとのやり取りに頭を悩まされる青木さんの姿が描かれています。目が離せない幼少期と、現在の思春期とでは、子育てにおける大変さの種類がまったく違うと思うのですが、いかがでしょうか。
青木さやかさん(以下、青木):おっしゃる通りで、小さい頃は体力的に大変でしたが、今は精神的な大変さが上回ってきたように感じます。少し目を離すと、娘の身に起きている問題や状況が把握できなくなる場合もあるので、遠巻きに見守りながらも、なるべく手を出さないように心がけています。
とはいえ、私は性格的に「見守ること」が苦手なので、幼少期とは別の、今は今なりの大変さがありますね。
――お子さんの年齢に関わらず、育児は困難を感じる場面がたくさんありますよね。本書の第1章にある一節、「倒れて、死んで、初めて、なら助けを求めればよかったのに、と言うんだろう、そうだろう?世間って、そうだろう」という一文に、胸が詰まりました。
青木:私の場合は、離婚していたこともあって、「自分で勝手にシングルになったんだから弱音は吐けない」と思っていたところもあります。
離婚した当初、「離婚するのは勝手だけど、子どもはちゃんと育てなさいよ」みたいに言われたことがあって。そういう風潮もあり、子どものためにしっかりやっている姿を「見せなきゃ」と思いすぎてしまい、なおさら疲弊してしまいました。
――世間の風潮以外にも、育児の悩みに関して“SOSを出しづらい”と感じる要因はありますか。
青木:まず、そもそも「人に助けを求める元気がない」というのが一番ですね。限界を感じている時は、人と話す元気もないので。
あと、いざという時って、予告なしで急にくるじゃないですか。もちろん、前兆はあるのでしょうが、自分ではそれに気付けない。なので、急にバタンと倒れたり、いきなり感情的になってしまう。そんな姿を人に見せたら仕事がなくなるかもしれない、とか、人にどう思われるんだろう、とか、そういう不安もあって、なかなか周囲にはSOSを出せずにいました。
――真っ只中にいる時ほど、自分が抱えている問題を言語化するのが難しい状況に置かれてしまうのですね。
青木:本を書く時も同じなのですが、渦中のことはなかなか言えないんですよね。過去になったから、傷も少しだけ癒えて、客観的に見えるようになって、「話せる」「書ける」状態になるんだと思うんです。
娘を産んだ当時は、母親との関係もうまくいっていなかったので、親にも頼れなくて。離婚後は、別れた旦那さんに頼るのも難しい状況で、「自分がいま何に困っているのかわからない」くらい疲れていました。
――育児において、幼少期と思春期とでは、お母さんとの間にあった確執の影響をより強く感じるのはどちらでしょうか。
青木:どちらとも言えないのですが、娘の言葉で自分の問題に気付けるぶん、今のほうが楽かもしれません。
たとえば勉強のことについてなのですが、以前、娘から「ママはいつも『勉強するな』と押し付けてくる」と言われてしまって。
私自身は、母から「成績よくなきゃダメよ」と言われて育ったので、娘には勉強を押し付けたくなくて、「勉強なんてしなくていいのよ」と声をかけていたんですね。母を反面教師にしていたつもりだったのに、母とは逆の意味で娘に自分の価値観を押し付けていたことに、娘の言葉で気付かされた瞬間でした。
――青木さんからすれば、お子さんを思っての言葉がけだったと思うのですが、自分の気持ちと娘さんの意志との間で、どのように折り合いをつけているのでしょうか。
青木:「孫」として、少し離れた視点を持つ娘から母の話を聞くうちに、私の中に変化が生まれました。それからは、徐々に折り合いをつけられるようになった気がします。
――どのような変化が生まれたのでしょうか。
青木:うちの母は、孫である娘が90点の答案用紙を見せても、褒めるでもなく「なんで100点取れないの」という調子だったんですね。これは、私自身が子どもの頃に言われてきた台詞でもあったので、私はそれを聞くたびに怒りがおさまらなくて。でも、娘からすれば「嫌なことではあったけれど、さほど根に持つようなことじゃない」と言うんです。娘のその言い分を聞いて、相性もあるのかなと思いました。
もし娘が私の立場だったら、母の言葉を半分聞き流しながら、友達に文句を言いながら、なんとなくやり過ごしていたのかもしれないな、と。そのうち、母親の嫌いだった部分が、私にとって風通しのいいものへと変化していきました。
八方塞がりの状況で、人生を大きく変えるために踏み出した「母との和解」
――2006年頃、「母が嫌いである」と取材でお話しした際に、多くの批判の声が届いたと本書にありました。その上で、お母さんとの確執について赤裸々に描いたエッセイをどのような心持ちで書かれたのでしょうか。
青木:世間一般の話よりも、“個人的な想い”のほうが人に届くと思っているところがあります。
「こういう人が多いから、こう書いてみたらどうだろう」と、社会に迎合する形で書いてしまうと、本来伝えたいことから途端にずれていくんですよね。なので、常に「自分がどう思っているのか」に焦点を当てて、その部分を深く突き詰めて書いています。
――今作『母が嫌いだったわたしが母になった』には、2021年に刊行された著書『母』と同じく、お母さんに対して抱き続けてきた、葛藤や嫌悪が描かれています。本書と『母』とで、執筆の最中に湧き上がる心情に変化はありましたか。
青木:ありました。『母』を書いた時は、母のことを思い出すのが、けっこう辛かったんですね。自分の中に、まだ解決していないことがあるんだなと感じました。ふつふつと湧き上がるマグマのような、怒りの核みたいなものが残っているんだな、と。
でも、今作の執筆時には、母を嫌いだったことを若干忘れている状態だったので、「母が嫌いだった当時の感情を一生懸命思い出す」という感覚で書いていました。
――やはり、一年一年、時間が経つごとに変わっていくものですか。
青木:変わっていきますね。母が亡くなる前に、母との関係をやり直すことができて、それ以降、母のことが嫌いじゃなくなりました。和解する前は、それがゴールかなと思っていたのですが、徐々に好きになっていったんですね。今では、車の中に母の写真を置いて、よく母に困りごとを相談したりしています。
――お母さんとの関係をやり直すために、お母さんが静養されていたホスピスまで、片道5時間の道のりを毎週通われたそうですね。
青木:我ながらがんばりました。「今まで生きてきて、一番大変だったことはなんですか」と聞かれたら、迷いなくあの当時のことだと言い切れます。
ずっと先延ばしにしてきた問題だっただけに、はじめるまでは相当腰が重かったです。でも、決意したからには続けようと思い、毎回自分にミッションを課して行きました。
――お母さんとの関係をやり直そうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
青木:現在、動物愛護活動の取り組みをしているのですが、その仲間のひとりに「親孝行すると自分が楽になるよ」と言われて。その言葉が大きなきっかけになりました。
――その言葉を言われた際、反発のような気持ちは湧いてきませんでしたか。
青木:反発とまではいきませんが、「頭ではわかっているけど、心が追いつかない」とは感じましたね。親とうまくいかない人は、同じように感じる方が多いのではないかと思います。わかっていても、どうにもできないんだよ、と。
それでも、仲間の言葉を機に、母との関係をやり直そうと決めた理由が2つあるんです。
――その理由とは、何でしょうか。
青木:まず一つ目は、私自身が八方塞がりの状態であったことです。肺がんを患い、パニック障害に悩まされ、人間関係もうまくいかない。そんな最中、「自分を助けられるのは自分なんだ」と気付いて、大きく人生を変えたいと思いました。それで、私がやり残したことは何だろうと考えてみたら、「母との関係をやり直す」ことに行き着いたんです。
二つ目の理由は、父との別れに悔いが残っていることです。
もともと、父との関係は悪いものではなかったのですが、子育てのことで口論になり、喧嘩したまま電話を切ってしまった日があって。それから数カ月が経ち、次に会った時には、父は病院のベッドの上で意識のない状態でした。
その時、はじめて近しい身内の死を間近に感じて動揺してしまって。娘として父親に「ごめんなさい」と謝るよりも、お医者さんや看護師さんたちに対して、「青木さやかとして毅然と振る舞う」方をとってしまったんですね。それを今でもすごく後悔しているので、母の最期が近いと知った時、父の時と同じ後悔はしたくないと思いました。
親が幸せであることが、子どもにとって一番の幸せ
――本書では、タイトルにある通り、「母が嫌いだったわたしが母になった」ことで、娘さんに負の要素を引き継ぐまいと奮闘されている青木さんの姿が印象的でした。
青木:これまでは、「自分が母にされて嫌だったことをしないようにしよう」と思って子育てをしてきたのですが、それがどうにもうまくいかなかったんですね。でも、母との問題を解決してからは、「母を反面教師にしよう」とは考えなくなりました。
先程お話しした通り、娘の存在を通して母親への感情が変化したのも大きいですね。最近は、母に対して「嫌いだった」感情だけが消えてなくなり、ただの出来事として思い出せるようになりました。
――本書のあとがきに、“昔は母のことを思い出すだけで吐き気がしていた”と書かれていました。でも、青木さんの中でお母さんとのことは、この数年の間に「過去のこと」になったのですね。
青木:そうなんです。なので、今回の本に関しては、むしろシングルになった時の大変さや、娘がいじめられているんじゃないかと気を揉んだ時のエピソードのほうが、思い出すのが辛かったですね。
過去になっていないことを俯瞰して書くのは、とても難しいので。
――辛いながらも、文章にすることで客観視できる部分もあるのでしょうか。
青木:ありますね。この部分は隠しておきたいな、と思うことが浮かんだら、むしろそこを書くしかないと腹を括ります。それによって、「問題が解決していなかった」ことがわかるんです。
言ってみれば、誰にも見られたくない日記を表に出すような感じでしょうか。
――娘さんと諍いになるエピソードも、本書にありました。「謝る」「許す」という行為は、親子だからこそ難しい部分もあるのではと思うのですが、いかがですか。
青木:難しいですね。ただ、近しい存在だからこそ、自分の分身だとかモノだとか思わないように、できるだけ娘に対して一番敬語を使っているかもしれません。
――たしかに、本書にある娘さんとの会話でも敬語が多いですよね。
青木:娘は私に対しては、敬語を使わないですけどね(笑)。
12年娘と付き合ってきて、彼女のことがだいぶわかるようになってきたというところもあります。言葉でコミュニケーションが取れるようになると、やはりだいぶ楽になりますね。
――子育てをする上で、発言や行動の軸が「自分のため」なのか「子どものため」なのかを振り返る場面はありますか。
青木:ほぼ自分のため、ですね。自分のために生きることが、子どものためになると思っています。自分の心が安定していて、満たされてあふれたもので子どもに対してできることが増えていくので。
親が子どものために生きるのは、道理です。なので、決して子どもを二の次にしていいというわけではありません。子どもが幸せになることが一番大切なのは大前提として、子どもにとって、「親が幸せであること」が大事だと思うんです。
――これまで青木さんが出版されてきた数々の著書から、娘さんへの想いがにじみ出ているのを感じました。これらの作品には、娘さんへのメッセージも込められているのでしょうか。
青木:そんなつもりはないのですが、いつか私がいなくなった時にでも読んでもらえたら、どれだけ大事に想っているかわかってもらえるかなぁ、とは思います。
最初にお話しした通り、本にはあくまでも「個人的な想い」を書いているので、私のことはひとつの事例に過ぎません。
以前、先輩に「質問は知的であれ、答えは体験的であれ」と言われたことがあって。体験的な話なら書ける、と思ったんです。自分自身の体験を、“なぜこういう感情になったのか”というところまで深く伝えられたらいいなと思うし、そこから何かを受けとってくださる人がいれば、すごく嬉しいですね。