<汐見稔幸先生インタビュー>今こそ心と心がつながる紙芝居を (童心社)
公開日:2023/3/12
童心社は創業以来、紙芝居を出版しつづけています。
これまで「母のひろば」では、紙芝居の持つ力や、絵本とはちがう魅力について、たくさんの方にお話をうかがい、語り合ってきました。
今回は教育学、保育学の第一人者である汐見稔幸先生に、「語り」という観点から紙芝居の魅力を語っていただきました。
汐見稔幸先生からのメッセージ
語りの文化としての紙芝居
紙芝居が子どもの育ちにおいて、どのような影響を持ち得るか考えてみようと思います。
演じ手がいて、観客がいる。そして演じ手が観客にむかって物語を語りかける——紙芝居の大きな特徴は、「語り」の文化の流れにあることだと思います。
「かたる」という言葉は日本固有の語である言葉、和語のひとつと言われています。のちに3つの漢字が当てられました。ひとつは「語る」。あとふたつは「騙る」と「交る」です。
「語る」は字の通り、吾(われ)が言うという意味です。大事なことを心をこめて伝える時には、「語る」を使ってきました。「騙る」は人をフィクションの世界に連れていく、実際にはないものを存在するようにする、ある意味騙すということですね。「交る」は、人と人が心をこめた言葉によって交わり合うことを指した言葉です。
似た言葉に「話す」がありますが、少し意味がちがいます。NHKのラジオ放送が始まってから、「話す」という言葉が日常的に使われるようになりましたが、アナウンサーが情報を伝えること、すなわち舌がしゃべるのが「話す」です。別の漢字を当てると「放す」や「離す」。つまり言葉を投げる、出してしまうという意味が強いのです。
語りには、その人の人格が出てきます。そして発声を通して、語る人も聞く人も音の意味を多層的にとらえることができる。かつての無声映画には、映画の内容を語る弁士がいましたが、これも語りの文化です。有声映画が主流になるにつれ、弁士は職を失っていきますが、そういった語りの文化が減ってきていることを大変残念に思っています。
そこで紙芝居です。紙芝居は日本が編み出した子どもの文化であり、語りの文化と言えるでしょう。
子どもたちは、弁士、つまり演じ手の「語る」言葉と絵を媒介にして、物語の世界に引きこまれていきます。そして、ハラハラドキドキする気持ちをみんなで味わう、つまり「騙る」世界を生きる。その中で周りにいる子たちと心を交わらせていく。「交る」体験をするということですね。そうして、互いにしっとりと仲良くなり、縁(えにし)が結ばれていく、それが紙芝居の持つ力だと思います。
人と人の縁(えにし)を結ぶために
今、日本社会は、人と人の縁(えにし)が無くなっていく無縁性社会に向かっています。昔は地域社会が生きていて、街にさまざまな人がいる中で、漠然としたゆるい繋がりが存在していました。ところが今は、地域がただ寝に帰ってくるだけの場所になってしまいました。地縁、血縁の関係性が弱くなり、マンションの隣人が誰かもわかりません。
SNSで簡単に人と繋がることができるようになりましたが、コミュニケーション手段としては不十分です。SNSは必要な情報だけを細切れに流すので、言葉に込められた思いまでは伝わりません。だから、直接言葉を交わしていれば起こらないような誤解が生じたり、余計な解釈をしてしまったりする。SNSは人と人が深く交わり合うコミュニケーションではないのです。
人と人が一緒にいる時、言葉のような明確な情報以外にも身体は無数の情報を発信しています。例えば、体温が伝わってくるのを肌で感じるように、身体で様々な情報を送りあっている。受けては返し、返しては受け、無数の身体的コミュニケーションが、人間を落ち着かせてくれるのだと思います。それはSNSでは補填できません。
以前、「全国子ども食堂支援センター・むすびえ」の理事長をされている湯浅誠(ゆあさ まこと)さんが話していたことですが——ある小学生が、子ども食堂で漢字ドリルをやっていたそうです。側でその子のお父さんと学習支援の大学生が黙って見守っている。女の子が1時間ずっと漢字ドリルをやっているので、お父さんが驚いたんですね。家ではこんなに集中して宿題をやれないのにどうしてかと。
宿題のようにやらされるものは、そもそもの目的意識が弱いので、ひとりでやっていると、サボってしまったりします。頑張っても誰にも認めてもらえないので張り合いもない。自分の味方である誰かの眼差しの中で、やる気がでてくるのです。それが縁(えにし)です。
社会から人と人が群れ合う体験が減ってきていることは、取りも直さず、子どももそういった体験を減らしてきているということです。
ひとりの世界で、人間は生きてはいけません。気の置けない人たちとの交流の中で、人間の心身は活性化されるのです。そういった身体的なコミュニケーションが人間としての基本的なあり方だと思うのです。
社会が無縁性に向かっている今、子どもの時に縁(えにし)をつくり合うような体験をたくさんしてほしい。その意味で紙芝居は大いに活用できると思うのです。おとなになってから、いきなりコミュニケーションを上手にとりなさいなんて言われても、難しいわけですから。
身体で「聞く」ということ
身体的なコミュニケーションには、相手から感じとること、つまり、聞く力が問われます。けれど近代社会では、強くなること、勝つこと……そういった価値観が大事にされ、聞くことがなおざりにされました。自然が何をうったえかけているか聞けなくなった結果が、今直面している環境問題です。昔の人は、自然が語ることを直感的に聞くことができたと思うのです。
「聞く」も和語のひとつです。派生語は、聞き下手、聞き惚れる、聞き流すなど、百ぐらいあります。日本人が、聞くことに文化的な価値を置いてきたことが言葉からわかります。「聞く」に関わる言葉をたくさん生み出して、微妙な聞き方の違いを大事にしてきたのですね。
聞くということは、世界から、他者から何かを受け止めるということです。裏を返せば、世界によって、他者によって支えられているという実感を得ることでもあります。
学校教育の現場では、教師がいちばん聞くことができていません。哲学者の久野収(くの おさむ)さんも、日本の学校教育は、教師がどう話すかばかりを研究していると厳しい批判をしました。どうやってわからせるか、どう従わせるかばかりを研究して、当の子どもから深く聞くことや、感じとることをしてこかなかったと。
学ぶことを強要されても、子どもは納得できません。自分でどう育ちたいか、何を学びたいかを決めたいという気持ちがありますから。与えられた目標を達成すれば大丈夫、正解を覚えておけば生きていけるなんて嘘です。そもそも学ぶことは膨大で、何を学べば正解かなんて、おとなが責任を持って言えるでしょうか。
幼児教育においても同じことが言えます。子どもは、赤ん坊の時からさまざまな形で気持ちを表現しています。だから、おむつを替えることひとつとっても、「おむつを替えたいけど、いいかな?」と聞いてあげてほしいと思います。断わりなく肌に触れられるのはおとなも嫌ですが、赤ん坊でも嫌だと感じます。丁寧に聞いてあげる、尋ねてあげることで信頼が生まれます。
そういった聞くことを保育方針としている園の保育士さんに聞いた話です——最初、とても戸惑ったそうなのです。ご飯を食べるか、お昼寝をしたいか、何をするにしても子どもに聞かないといけない。こんな面倒なことをしていていいのかと。ところが、子どもたちが3歳になった時に、ものすごく自分の意見を言うようになったので、こんな3歳児を見たことがないと驚いたそうです。 聞いてもらえることで、自分の意見を言っていい、大事なことは自分で決めるんだと、子どもたち自身が思えるようになるのです。常に子どもを主体と考え、子どもから聞いて学ぶことが大事なのです。
いまこそ紙芝居を
語りの文化である紙芝居には、感じとる意味での「聞く」要素が大いにあります。
紙芝居を見ている側は、周りの子や演じ手の様子からさまざまなことを感じとります。一方、演じる側は紙芝居を語りながら、子どもたちが物語をどう捉えているか肌で聞きとっている。それによって、画面を抜くタイミングや語り口がかわってきます。
そうやって、聞き合うなかで、身体的なコミュニケーションの心地良さを体感していく。それは紙芝居が持っている人間形成作用だと思うのですが、これまでそういった紙芝居の教育的な価値は議論されてこなかったようです。
コロナ禍で社会がより無縁性の方向に加速してしまいました。ですから、子どもを育てる中で紙芝居を上手に取り入れて、子どもたちに、心と心が結ばれ合う体験をたくさんしてほしいと思います。
「母のひろば」703号(2022年12月15日 童心社発行)より
教育学、子どもの発達的人間学(教育人間学)、特にことばと人間形成を専門とする教育哲学者。わかりやすくユーモアにあふれた講演内容は、教育者、保育者、子育て中の親まで幅広く支持されている。