まともな客が一人もいない東京都北区十条に実在した異次元空間――伝説のスナックを描いた実録コミック『さよならキャンドル』

マンガ

公開日:2023/3/13

さよならキャンドル
さよならキャンドル』(清野とおる/講談社)

 大人になったら馴染みの店を作って足しげく通うもの――そんな風に考えていた時期が私にもあった。家でも仕事場でもないリラックスできる場所がほしくて、バーやスナックで常連になりたかったのだ。ただ現実には店を開拓できず今に至っている。だがまだあきらめてはいない。なぜなら私の家の近所には“すごい”店がたくさんあるからだ。馴染みの店も探せていないのに、なぜそんなことが分かるのかといえば、私が10年以上住んでいる場所は“東京都北区”なのである。

 もしあなたが酒好きでマンガ好きならば、清野とおる氏の「東京都北区赤羽」シリーズはご存じだろう。北区赤羽地域にある“すごい”というか“ヤバい”店と、そこに集う少し(?)個性的な人たちを紹介するこの作品は、シリーズ累計発行部数20万部以上のリアルコミックエッセイである。本稿で紹介したいのはその番外編ともいえる『さよならキャンドル』(講談社)だ。

 北区赤羽の隣町、十条のスナック「キャンドル」について描かれた本作は、本家『東京都北区赤羽』以上に、にわかには事実とは思えないエピソードが満載である。清野氏は「キャンドル」の尋常ならざる破壊力は本家『東京都北区赤羽』を抹消しうる恐れがあると感じ、封印したのだという。そんないわくつきのスナックとは……?

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すべて実話! スナック「キャンドル」の物語

 スナック「キャンドル」の物語は2008年に始まる。当時、清野氏はマンガの仕事が思うようにいかず、北区十条の弁当屋で深夜アルバイトをしていた。その弁当屋へ、ゴージャスな衣装とメイクの老婆がたまにやって来るようになる。「彼女のいで立ちと来店時間を考えると、スナックや居酒屋をやっている可能性が高い。ならば行ってみたい」。そんな風に考えていた清野氏は、ある日アルバイト上がりに周辺をさまよい、一軒のスナックを見つけた。

 そこは現実とは思えない異空間だった。

 扉を開けるとあの老婆がいた。彼女――ママ(店主)とお店のただならぬ雰囲気に魅了された清野氏は、週一で通うようになる。はたしてキャンドルは十条の街に巣食う珍奇な酔狂中高年たちの駆け込み寺であった。

 他店で出禁の嵐にあった遭難泥酔老人や、初対面の客に「おもしろい顔」を執拗に披露し続ける謎のコック、初対面の客の股間を唐突に鷲掴みする男、近隣の酒場を荒らしまわった恋愛詐欺師。毎回、店内で個性の渋滞が起きるなか赤羽で清野氏の居場所だった迷店「ちから」のマスターがキャンドルを訪れ、カオスさは最高潮を迎える。「東京都北区赤羽」シリーズの読者ならば、清野氏の相変わらずのヒキの強さと胆力に感じ入り、ワクワクしながらページをめくってしまうはずだ。

 2009年になると、清野氏は『東京都北区赤羽』の連載を始めており、「キャンドル」通いはその取材の意味もあった。しかしこのスナックの濃厚な魔性は、赤羽で数々の“酒羅場”をくぐりぬけてきた清野氏をもってしても手に負えなかった。前述の通り「キャンドル」のネタは『東京都北区赤羽』を破壊しかねないと判断され、当時は描かれることはなかったのだが、時を経て清野氏はケリをつけようとペンをとったのだ。

参考になる? 馴染みの店を作るための心構え

 私は最近、自宅から歩いて10分ほどの「キャンドル」があった場所を訪れた。そこには現在マンションが建っている。「キャンドル」は2014年に閉店してもうないのだ。10年ほど前、清野氏がママに頼まれて制作した「キャンドル」の看板(第15話「看板事変」で描かれている)を実際に見た記憶がある。もちろん入店する勇気はなかったし、あれから10歳年をとったにもかかわらず、仮にまだ店があったとしても入れる気がしない。そんな私みたいな人間が馴染みの店を作るにはどうしたらいいだろうか?

 本作は異次元空間的スナックで起こった実話コミックエッセイだが、スナックでのふるまいマニュアルでもある。作中でも描かれている「“明朗会計でない”ことに備えて手持ちの現金は少なめにする」「ママはスナックの唯一絶対神なので絶対服従」「おすすめの酒を飲む」「店主や常連に何かを聞きたい時はその店に3度は通え」などは頭に叩き込んでおく。そのうえで、清野氏が描いている“感覚”が必要になる。

…この扉の向こうに今日はどんな客がいて
どんな光景が広がっているんだろう…?
この扉を開ける瞬間だけは全然慣れないな
いつも緊張するよ…でも…
この緊張感が…イイッ

 このように清野氏は、毎週通い続けていた店でも緊張していたのだ。その緊張感と「何が起こるのか」というワクワク感を楽しめるかどうかが、常連に近づくポイントなのだろう。

「キャンドル」があったこの北区十条は今も“すごくてヤバい”店だらけである。他の街よりも少しだけ店開拓のハードルは高いかもしれないが、本作を読んだ今こそ、重たい扉を開けてみようと思っている。リラックスできる雰囲気かはとりあえず期待せずに……。

文=古林恭