甲子園地区予選の裏で起きた自転車盗難事件。事件の裏に隠された切なる願いを集めた長岡弘樹の自選短編集『切願』
公開日:2023/3/23
どっしりとした重厚な長編ミステリーもいいが、技巧の光る短編ミステリーで「そうきたか!」の驚きを味わいたい。そんな人におすすめなのが『切願 自選ミステリー短編集』(長岡弘樹/双葉文庫)。2003年のデビュー以来、120編以上もの短編を発表してきた著者が「これぞ」と自負して選び抜いた5編は、どれも期待を裏切ることがない。さらに小説推理新人賞受賞作を初収録した全6編となっている。
切願、というタイトルが示すとおり、どの作品でも描かれるのは、事件解決の裏でこぼれ落ちてしまいがちな、誰かの切なる願いだ。たとえば息子を殺されてしまった母親の無念。自分の命に代えても生きていてほしいと願う、大切な人への愛。それは、犯人逮捕の緊迫感に比べたらささやかなものかもしれない。社会に問うような意義も、ないかもしれない。それでも、作中で描かれる、人生をかけて何かを成し遂げようとする人たちの想いと、それに関連する謎が、読み手の心にも突き刺さる。
なかでもNHKでオーディオドラマ化された「迷走」は秀逸だ。著者自身、かなり気に入っている作品で、地元の書店員にも“とくに衝撃を受けた作品”として挙げられたのが収録の決め手のようだが、読み終えた今、それはそうだろうとうなずくしかない。主人公は、救急隊員の男。救急車に同乗する隊長の娘との結婚が決まっているのだが、救急車で搬送することになったのは、その、婚約者であり娘である彼女に害をなした事件に関与する、憎むべき相手だった。
まず、相手が誰であろうと命を救わなくてはならないという職務倫理のなか、私情に揺れる隊員の葛藤が迷走のひとつ。もうひとつは、サイレンを鳴らしたまま病院の駐車場を通り抜け、ぐるぐると近隣を走りまわる救急車の物理的な迷走だ。これを指示するのが隊長なのだが、はたして彼もまた、復讐に心が傾いているのか。だとしても、その迷走の理由はなんなのか。その真意が明かされたとき、タイトルの「切願」という言葉が、何重もの意味をもって押し寄せてくる。
書籍初収録となる「真夏の車輪」も読み逃せない。小説推理新人賞を受賞した、著者の正真正銘のデビュー作である(掲載にあたっては大幅に改稿されている)。甲子園への切符をかけた地区予選が行われる野球場で起きた、自転車盗難事件。犯人と被害者の少年二人の視点で、物語は交互に描かれていく。たかが自転車、されど自転車。犯罪とはいえ、大人から見れば“そんなこと”で流されてしまいそうな小さな事件のなかに、少年たちの生きる姿勢を問うような切実さが描かれる。同じ高校で、同じ景色を見て生活しているはずの二人の対比も、おもしろかった。
ちなみに、基本的に人の良心が問われる作品が並ぶなかで、「苦い確率」という短編は、やや異色。裏社会のボスが理不尽に強いてくる試練の理由が明かされたとき、それもまたあまりに理不尽で、本人たちには深刻であるぶん、笑ってしまった。誰かにとっては人生をかけた切願も、誰かにとってはとるにたらないもの。それでも私たちは、想いを通すべくがむしゃらに生きるしかない。想いの積み重ねとすれ違いが生む珠玉の謎が、この一冊には詰まっている。
(文=立花もも)