又吉直樹、10年ぶりのエッセイ集『月と散文』が遂に発売。コロナ禍で向き合った、孤独と家族、青春の後の“欠落”した日々とは

文芸・カルチャー

公開日:2023/3/24

又吉直樹

 単独著書としては2019年以来の新作、10年ぶりのエッセイ集の刊行、漫画家・松本大洋によるカバー装画など、発売前から話題を集めた又吉直樹の『月と散文』。全体を通じて笑いがちりばめられている一方で、コロナ禍によって向き合うことが余儀なくされた孤独や自身のルーツ、人間の抱える感情の醜さなどが多く語られている。青春に区切りをつけてその後の人生に踏み出した又吉が、執筆期間に何を考えていたか、語ってもらった。

取材・文=橋本倫史 撮影=三宅勝士

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コロナ禍で集団の凶暴さや残虐さが色濃く出たなと思った

月と散文
月と散文』(又吉直樹/KADOKAWA)

――今回のエッセイ集は、又吉さんが2021年に立ち上げられたオフィシャルコミュニティ「月と散文」で執筆してきた文章をまとめた1冊だとうかがいました。まずご自身のコミュニティサイトを立ち上げた経緯から聞かせてください。

又吉 僕はずっと、「実験の夜」というライブを毎月やってきたんですけど、コロナ禍になったことで、劇場にお客さんを入れられない時期があったんですね。しかも、コンビやトリオであれば一緒に舞台でコントができるけど、(相方が不在の又吉が)コンビを組んでいない誰かと一緒にやろうとすると、距離を取ったりマスクを着用したりしないといけない、というルールができたりして……。しばらくは自分で書いた原稿やコントを読む朗読スタイルで「実験の夜」を続けたんですけど、2021年4月に100回目を迎えたところで一旦閉めたんです。ただ、自分が考えていることを定期的に発表する別の場が必要だな、創作の「最初の発想を出す場所」を作りたいなと思ったんですよね。

――この『月と散文』というエッセイ集は、「満月」と「二日月」という2章から構成されています。この並びはどのように考えられたんでしょう?

又吉 この2年間に書いてきた文章の量が多かったので、「2章か3章に分けたほうが読みやすいんじゃないか」って話がまずあったんです。それで、あらためて自分の文章を読み返してみると、コロナ禍の日々で考えたことを書いたものと、それ以前の記憶を書いたものに大きく分けられたので、子供の頃の記憶や家族の話を書いたものを「満月」にして、大人になってからの話を「二日月」にしていった感じですね。

――「月と散文」という名前は、コミュニティサイト自体の名前にもなっているので、書籍のタイトルは別にするという案もあったとうかがいました。それでも『月と散文』というタイトルを選ばれた理由は何だったんでしょう?

又吉 僕は昔から月が好きなんですけど、毎日見ていると、日によって全然違うじゃないですか。月の満ち欠けにはサイクルがあるし、カレンダーにもなる。それに、見える日もあれば、見えない日もある。それは日常というものと繋がっているなと思ったんです。見えたり見えなかったりすることや自分が日々感じていることを、自由に書く――ライブをする場所もなくなって閉塞感を感じていた日々の中で、自分にとって大切なものを2つ並べたタイトルだったので、今回の本も『月と散文』という名前にすることに決めました。

――巻頭に収めれられているのは、「いろいろ失くなってしまった日常だけど」というエッセイです。これはコミュニティサイトに最初に掲載された散文でもありますが、コロナ禍という日々は、又吉さんの文章や思考にどんな影響を与えたんでしょう?

又吉 一人になる時間が増えましたし、人生でここまで休んだ時期もなかった気がするんですよね。子供の頃でも、やることって多いじゃないですか。勉強はそんなにやる方じゃなかったですけど、部活があったり何かしらの催し物があったりして、結構忙しかったと思うんですよね。でも――これは僕に限らず、皆さんそうだったと思うんですけど――普通にやれてたはずのことが、コロナ禍になってできなくなって。そのしんどさがある一方で、僕みたいなもんは本を読んだりドラマを観たりする時間が創作にもつながるので、どこか充実してる感覚もあったんですよね。

――相反する感情があった、と。

又吉 はい。ただ、こんなに休みが続くと、元の生活に戻れなくなるんじゃないかって怖さはありましたね。あと、ワールドカップやWBCが開催されると、一丸となって、美しい魂を共有し合うじゃないですか。それはすごく感動的だなと思うんですけど、コロナ禍では集団の凶暴さや残虐さが色濃く出たなと思ったんですよね。「われわれは」みたいに、大きな言葉で世界を捉えることの恐ろしさ、というか。そんな日々の中で、自分にとって必要なものは何か、自分にとって確かなものだと思えるのは何かと、一個一個確認していくような時間でしたね。

又吉直樹

「恋人もいるし仕事も順調だからしんどい」と感じる人も世の中にはいる

――コロナ禍になって、「不要不急の外出は控えるように」と叫ばれていた時期には、孤独というものと直面させられた人もたくさんいたと思うんです。ただ、又吉さんはコロナ禍になる以前からずっと孤独について考えてきたようなところがありますよね。

又吉 子供の頃からずっと、独りの時間が好きだったんです。ただ、そんなに広い家じゃなかったんで、「一人でゆったり映画を観る」みたいなことはありえなかったんですよね。両親が寝てる布団の前にしかテレビはないので、両親の布団とテレビとあいだの50センチぐらいのところに座らないと、夜中にテレビを観ることもできなかった。常に家族の存在が近くにあって、外に出ないと一人になれなかったんです。それで散歩に出かけたり、夜の公園に行ってサッカーの練習をしたりしてたんですよね。

――一人になれる時間が贅沢なものだったんですね。

又吉 学校には友達がいましたけど、一人でいることが多かったし、皆とつるんで移動教室に行くみたいなことはなかったですね。ただ、今思うと、安全が確保されている状況の中で端っこに座るのが好きやったんやなと思うんですよね。自分で選択した孤独は好きだ、っていう。実家を離れて東京に来てみると、自分の意思とは関係なしに一人きりって状況が何回もあって、それは結構きつかったんです。ただ、そうやって無理やり孤独な状況に置かれて、しんどい思いをしたから得られたものもいっぱいあるな、と。

――と言いますと?

又吉 例えば、創作においてですよね。一人でいる時間があったから、ネタや文章が書けたところもあるんで、しんどくても孤独を受け入れていかないといけないなと思っていたんです。でも30歳になったあたりで、「それはもうやれたから、今度は人と関わっていこう」と、積極的に人としゃべるようになったんです。そのせいで疲れてしまうと、今度はまた一人でいることを選んで――その両極を行ったり来たりしてましたね。そして、コロナ禍に突入したことで、また強制的に孤独になって。そのしんどさは感じてましたけど、「これは次の創作につながる時間やな」とは感じていました。これまでを振り返ってみても、ネガティブな感情になっている時期と、創作モードに入っていく時期はほぼ重なっていたので。

――先ほどの話で印象的だったのは、子供の頃の記憶について書かれたものは「満月」で、大人になった自分についてものは「二日月」と分類されていたことだったんです。つまり、又吉さんの今は、子供の頃に比べて欠けているという意識を持たれているということですよね。

又吉 そうですね。

――又吉さんは世間から、ピースでブレイクしてテレビにも出演するようになって、「火花」で芥川賞を受賞して、何かを成し遂げた人のように認識されていると思うんです。でも、本書に収録されている「銀河系永久光のチャンピオンです」というエッセイの中で、キングオブコントを観ていたら焦燥感に駆られた、という話を書かれてますよね。そこには「自分はチャンピオンになれなかった」という欠落感が強く滲んでいる、というか。

又吉 おっしゃる通りで、僕が抱えている欠落と、世間の僕に対する印象が乖離してるから、表現が難しくなってる部分もあるんですよね。「皆がミットを構えてるところに、ボールを投げてない」みたいなところはあるんでしょうね。でも、それは昔からなんですよ。35歳ぐらいで芥川賞を受賞してからでも、2010年にピースで出始めてからでもなくて、20歳の頃からずっとそうなんです。「サッカーやってて、服が好きなのに、なんで暗いの?」みたいなことはずっと言われてきたんです。でも、人って条件が揃ってれば幸せになるわけでもないですよね。世の中には「恋人がいたらすべてが解決するのに」と思っている人もいれば、「仕事がうまくいってさえいれば幸せだ」と思う人もいるんでしょうけど、「恋人もいるし仕事も順調だからしんどい」と感じる人も世の中にはいますよね。「レディオ・ヘッドのトム・ヨークは、『OKコンピューター』がヒットした後に自分を見失った時期もあった」みたいな話を聞くと、「それ、どういうことなんやろ?」と思うんですけど、でも、なんかわかるような気もするんですよね。

――又吉さんのエッセイを読んでいると、「自分はまだ何者にもなれていない」という焦燥が伝わってくるところもあるんです。例えば、「この夜の話も伝説みたいに語られるんかな?」というエッセイには、若き日にパンサーの向井慧さんと交わしたやりとりが描かれています。自分はスターのような人生を歩むことはできないけど、様にならない自分の人生をいかにして抱きしめるか、という視点が含まれているような気がします。

又吉 さっきの「孤独」の話とも通じるんですけど、自分の中に欠落した部分があるから、どうにかやれてる部分もあるんですよね。「自分にはできなかったことがある」っていう意識があったり、「自分の中に欠落したものがある」という気持ちがあるから、どうにかやれてるというか。

両親との差異で他人を測ってきた

――「満月」の章に書かれている、子供の頃の記憶や家族の話というのは、どんどん遠い日の記憶になっていくものでもありますよね。又吉さんは小説の中でご両親の姿を描かれてきたところもあると思うんですけど、この2年のあいだのエッセイを読んでいると、家族と過ごした時間が遠ざかっていく気配が伝わってきたところがあるんです。

又吉 確かに、距離が遠くなっていく感覚もあるんですけど、その一方で両親のことを考える時間が増えているところもあるんです。姉とメールしてても、「僕の顔や姿勢が父親に似てる」と言われたり、母親がよくやっていた癖を、いつのまにか僕がやってることに気づいたり。……遠くなったぶん、自分の中にそういう「しるし」を探しているようなところもあるんです。自分が望んでいなくても、本質的な部分で自分は両親に似てるところがあるんじゃないかってことを、家族の記憶を辿って掘り下げていく時期でもあった気はしますね。

――大人になってからの時間を「二日月」という欠落した状態になぞらえていることにも近いですけど、欠けてしまったものや、喪失してしまったものとどう向き合うかということも、本書の大きなテーマの一つだと感じたんです。「火花」の中で又吉さんは「生きている限りバッドエンドはない。僕たちはまだ途中だ」と書かれていましたけど、何かが欠けてしまった後にも続いていく人生を絶望せずに生きていくことは、又吉さんにとって大きなテーマなんだな、と。

又吉 「火花」は自分と同時期に活動してきた芸人の風景を描いたつもりですし、「劇場」は自分が見てきたものを描いたという認識やったんですけど、今まで書いてきたエッセイを含めて、もしかしたら全部、父と母の影らしきものを書いてきたのかもしれないなと思うようになったんですよね。「人間」という小説に関しては、もろに両親のことを書いた構造になってましたし。

――又吉さんの中では、ご両親に対する興味がすごく大きかった、と。

又吉 両親が一番の興味の対象やったんやなって、『月と散文』を書いていた期間に思いました。やっぱり僕にとって父と母が最初に見た人間ですし、最初に影響を受けた人たちやから、外の世界に出ていった時、両親との差異で他人を測ってきたところもあるんです。自分の家族を基準にして、「なんで友達のお父さんはあんなにしゃべるんやろう?」とか、「なんであんなに優しいんやろう?」とか思ってたんですよ。小学校4年生とかになって、「ああ、うちがちょっと変なんや」って気づくんですけど、その時の影響が今もすごく残っているんです。そういう自分の創作スタイルについてはもう分かったから、「人間」を書くことで青春期を一回終わらして、そこから先は新しいステージにいくつもりでいたんですよね。でも、今回の『月と散文』はまだその余韻が残っていて――両親について書くのはこれが最後ってわけでもないかもしれないですけど――ここで完結させようとした部分はあったかもしれないです。

――このエッセイを書いていた期間というのは、過ぎ去ってしまった時間にどうにか区切りをつけて、これから続いていく人生に意識を向けていく期間でもあったわけですね。

又吉 そうですね。小説を書くにしても、もっとフィクションに振ったものを書いてみたいなという気持ちは、ここ数年ずっとあるんです。ただ、自分の性質として、自分とは無関係な話を書いていても、どこかに自分の感覚や感情みたいなものは入ってしまう気がしますね。それはもう、コントを作っていても、そうなってくるんです。だから、物語に特化したものを作りながらも、私小説みたいなものも書いていきたいなと思っています。

月と散文
松本大洋氏によるカバーの原画。カバーを外した表紙にも本文と呼応する絵が隠されている

月と散文
数量限定で特装版もリリースされた(1万5400円・税込)。題箋、アンカットなど、又吉のこだわりが詰まっている。
https://www.kadokawa.co.jp/topics/9354/