「もう恋なんて」と感じている人にこそ読んでほしい大人の恋愛小説。川上弘美が“国語教師との再会”を描く
公開日:2023/3/29
恋は苛烈なものだと、突然火がついて身を焼き尽くすものだと、幼い頃はそう思い込んでいた気がする。だが、恋には人それぞれの形がある。じっくりじんわりコツコツと。大人にはそうやって徐々に温まっていくお付き合いだってあるのだ。
段々と春めいていくこれからの季節は、恋の季節だなんて言われるが、歳を重ねるたびに「もう恋なんて」と感じている人は少なくはないだろう。だけれども、そんな人にこそ、読んでみてほしい本がある。それは『センセイの鞄』(川上弘美/文藝春秋)。少しずつ暖かくなっていく今の季節にこそ読みたい、大人たちの恋の物語だ。
主人公は37歳の大町ツキコ。彼女は行きつけの居酒屋のカウンターで、高校時代の国語の先生・松本春綱先生と再会した。以来、ふたりは憎まれ口をたたき合いながら、ともに酒を嗜み、肴をつつき、語らい合うようになる。特に約束するわけでもなく居酒屋で会い、勘定だって別。そんな彼らは次第に出かけるようになり、露店巡りやキノコ狩り、花見、そして、島旅へ。いつの間にか、ツキコとセンセイは、ふたりで過ごすことが当たり前になっていた。
ツキコとセンセイの距離感は何とも絶妙だ。歳は30と少し離れているが、ふたりは酒肴の好みも、人との間の取り方もよく似ている。ツキコは、同じ歳の友人よりもセンセイのことをいっそのこと近く感じるとさえいう。「ツキコさん」と飄々と話しかけるセンセイと、その話に「はあ」と返答するツキコさん。その伸びやかなやりとりは、読んでいて心地良い。
再会した日に食べていた、まぐろ納豆、蓮根のきんぴら、塩らっきょう。秋、山でいただくキノコ汁。冬、肌寒い夜に味わう湯豆腐…。物語に登場する料理はどれも香り立つようで、食欲をそそられる。それらを一緒に味わうことでツキコはセンセイとの距離を縮めていくのだが、その歩調はゆっくり。遅々として進まない恋模様に、ときにもどかしささえ感じてしまうかもしれない。だが、一歩ずつ一歩ずつ、ツキコさんはセンセイへの思いを自覚していくのだ。
どうしてセンセイと話をするときにわたしはすぐに憮然としたり憤慨したり妙に涙もろくなったりするのだろう。もともとわたしは感情をあらわにする方ではないのに。
この本を読むと、驚かされる。髪を撫でられるだけの場面で、「好き」と告げるだけの場面で、こんなにも胸が締めつけられることに。好きな人の前でどんどん素直になっていくツキコさんがなんと可愛らしいことか。そして、意地悪なようでいてそんなツキコさんを優しく包み込むセンセイの姿にもグッとくる。
センセイと過ごした日々は、あわあわと、そして色濃く、流れた。
人生で一度、こんなに豊かな時を味わえたらどんなに素晴らしいことだろう。ツキコさんとセンセイの恋模様を垣間見るにつれて、「恋っていいものだな」と思わずにはいられない。ポカポカとゆったり温まっていく恋模様は、次第に春めいていく今の季節にこそ合うように思う。しっぽり一人でお酒を嗜むように、あなたもぜひともこの本を味わってみてほしい。年齢を重ねたからこそしんみりと染み渡る恋の物語は、あなたの心を、いつまでも温め続けるに違いないだろう。
文=アサトーミナミ