直木賞作家や音楽アーティスト、芸術家…さまざまな分野の表現者たちが紡いだ新しい"私小説"の形
公開日:2023/3/30
作家が経験したことのほぼそのままを書くスタイルの「私小説」(代表例は梶井基次郎作『檸檬』、田山花袋作『布団』など)は、20世紀初頭に確立しました。そしてSNS全盛の2020年代、経験したことをそのまま、ないしは多少の脚色を添えて(あるいは全くもって架空のエピソードを)公に示すことは当たり前となりました。そんな時代に、作家たちはどんな私小説を生み出すことができるのかという模索がなされているのが本書『私小説』(金原ひとみ:編/河出書房新社)です。雑誌『文藝』(河出書房新社)で連載された私小説特集(尾崎世界観、西加奈子、島田雅彦、町屋良平、しいきともみ、金原ひとみ、千葉雅也、水上文のそれぞれ1話ずつ)に、エリイによる書き下ろしが加えられています。
本稿では3作をピックアップして紹介したいと思います。まず人気バンド「クリープハイプ」の尾崎世界観が書いた「電気の川」。「コロナ禍で開催された自分のライブについて人気ライターが書いた文章を、自分で読み上げたときに感じる違和感」という、かなり属人的かつピンポイントな感情を出発点にしています。そんな非常に限られたシチュエーションでありながらも、SNS普及によって誰しも一度は感じたことがあるであろう「カテゴライズ」や「レッテル貼り」に対する違和感や、「見る/見られる」「言う/言わない」という葛藤などといった微細な感情を、絵筆でなぞるようにすくい取ることによって普遍性を感じさせてくれる作品です。
続いては、本書のために書き下ろされた、アーティスト集団「Chim↑Pom」のエリイによる「神の足掻き」。コロナ禍中にイギリス領・ジブラルタルに行った後にコロナにかかり、品プリ(品川プリンスホテル)に感染防止隔離のため「ぶち込まれ」た前後、主人公・妙の身に起きた出来事を独特の浮遊感で描いた一作です。「妙が何を考えているか」よりも「妙のまわりにどのような磁力が渦巻いているか」というようなことに焦点を当てて描かれていて、「カラスの剥製でカラスの大群を率いる」「渋谷駅の岡本太郎の絵画に絵を上乗せする」など奇想天外な発想を具現化する中心人物として活躍してきた経験が、小説執筆にもガッツリ投影されていることが確認できました。
この一ヶ月ほど、髪が抜け続けている。家中に落ちている異変に気付かないわけはない。黒いセーターを着て飼い猫と戯れ合う人のように、妙の洋服には髪が付着していた。私は私と戯れ合っているのだろうか、と妙は思った。
「最近、髪がやたらと抜けるんだよね。何でだろう、ホルモンバランスが崩れているのかな」
と妹とご飯を食べたときに妙は何の気なしに言った。
「それってコロナの後遺症じゃない?」
と、彼女は秋刀魚の背骨を抜いた。
抜けている髪の毛に「私と戯れ合っている私」という「自分」の痕跡を認めつつ、話し相手の食べている魚の骨にまで意識が飛んでいる(「自分」の範囲が他者や食べ物にまで拡張されている)ということから感じられるような「磁力の強さ」が全編に宿っていて、予想もしていないような言葉のつながりや、物語の飛躍を楽しめる一作です。
本書の編集を務めた金原ひとみ作「ウィーウァームス」も、予想もしていないような飛躍を、ある一人の人間の内面世界にダイビングするような形で体験できます。
40代女性の主人公は、パートナーがMeTooなどハラスメント、性暴力の話題に対する「意識が低い」ことに釈然とせず、缶チューハイを飲んだ後、バルコニーでタバコを吸いながら深い思索を始めます。そして、意識(コンシャス)という言葉をラテン語の原義までさかのぼって考えると、「(神と)一緒に考える」という意味合いがあり、昔から「私」は「私の意識」を独占していたわけではないという、文脈からするとかなり意外な事柄に思いを巡らせます。
十七世紀以前の人間の意識、いや意識と呼ばれる前の意識的なるものによって認識されていたのは、自他の区別が薄いまま全てが乱雑に存在しているような、もはや現代では味わえない、より動物などに近い感覚だったに違いない。逆に当時の人からしたら、「自分」というものが確固としたものとして存在しているなんて、奇妙に感じられるに違いない。
「ありのまま」を感じるのが従来の「私小説」の読書体験でしたが、様々な自他の境目のパターンを吸収して「自分」の層がどんどん多重になっていくことが「新しい私小説」による読書体験なのかもしれません。ぜひ、読者の皆さんなりの回答を、本書から見つけてみてください。
文=神保慶政