「人ってちゃんと回復していくんです」──ダイレクトに心に"効く"連作短編集『夜空に浮かぶ欠けた月たち』窪美澄インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/7

 ※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2023年5月号からの転載になります。

窪美澄さん

 「ふいに背中にあたたかなものが触れた」。たとえどんなに物語がつらい方向へ向かっていっても、どうしようもない思いに登場人物がとらわれていても、窪さんの小説には、いつもそんな感覚をおぼえる瞬間が訪れる。冒頭の一編〈キャンベルのスープ缶〉で、「私は大丈夫、私は大丈夫」と自分に無理な呪文をかけ、うつを発症してしまった大学生・澪の背にふと添えられる掌のように。

取材・文=河村道子 写真=冨永智子

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「これまでの作品のなかでも心のケアについては遠回しに書いてきたのですが、『ははのれんあい』の新聞連載が終わり、肩の力がほっと抜けたところで、“今の自分が一番書きたいものって何だろう?”という問いと向き合ってみたんです。浮かんできたのは、もっとストレートに、心のケアについてアプローチをする物語。“心の病院”という設定を物語のなかにつくり、いろんな症状を持つ人々が現れてくる小説を書きたいと思いました」

 そこには、自身の日々も重なる。

「もうだいぶ良くなってきているのですが、私も澪ちゃんと同じ、うつの診断を受け、メンタルクリニックに通っています。自分もそういうものに支えられながら生きている人間です、ということを伝えたかったという思いもありました。そしてそんな自分だからこそ思い浮かべられる理想的な“心の病院”も」

 アンディ・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」の絵が飾られた部屋の掃き出し窓からはハーブの揺れる小さな庭が見える。旬先生とカウンセラー・さおり先生夫婦が暮らす二階建てのこの一軒家が、舞台となる「椎の木メンタルクリニック」だ。「この病院によく来てくれたねえ」というひと言だけで、涙が溢れてしまった澪は、大学に通うためやって来た東京で周囲の“キラキラ”と自分を比較して落ち込み、さらにはひとり親家庭のきびしい家計の中、東京に送り出してくれた母への罪悪感から大学に通えなくなってしまった。

「Z世代である澪ちゃんの場合、SNSに傷ついていることが因としてすごく大きくて。インスタグラムなどを見ると皆、すごく幸せそうに見えるじゃないですか。地方から来たことだけですでに心に負荷が掛かっているのに、SNSや都会にあるもの、そこに暮らす人たちの発散するキラキラして見えるものによって、彼女は自己肯定感をぐんと下げてしまった。澪ちゃんのような人が数多く存在しているということが実感としてあるとともに、それはすごくもったいないことだなぁと思っているんです。キラキラしていなくたって、何者にならなくたっていいじゃない、そうならずとも、あなたには生きている価値がちゃんとある、ということを肉迫するように書きたかった」

 澪の異変に気付き、「私、病気じゃありません!」と言う彼女に、椎の木メンタルクリニックを紹介するのは、バイト先「純喫茶・純」の女主人、ちょうど澪の母親と同世代の純さんだ。

「冒頭の一編を書いていくなかで、箱庭のなかにぽんぽんと建物を置いていくように、喫茶店とメンタルクリニックのある、ひとつの町が現れてきました」というその場所で、それぞれ異なる心の憂いを持った人たちの日々は語られていく。

心の風邪をひいた人々の“実際”に寄り添って

 連作短編のタイトルには、すべて著名な絵の名が付けられている。ADHDだったのではないかと言われているピカソの作品「パイプを持つ少年」を冠した一編では、「彼が本当にADHDだったとして、それは偉大な芸術家だったから許されたこと」だと自分を「ダメサラリーマン」と呼ぶ植村くんは思っている。「植村ってADHDなんじゃねーの」というひそひそ声が飛び交う中で。

「学校でも、昔なら“だらしない子”ですんでいたことが今はあまり許されないというか、ADHDという病名で区切られてしまっている気がするんです。学校のみならず、会社に入っても、何かがはみ出てしまう人はその名のもとに、チョキチョキ切られてしまっている気がして。忘れ物が多かったり、片付けができなかったり、苦手なことや程度はそれぞれなのにADHDという大きな袋にみんな入れられてしまっているというのは、ちょっとどうなのかな?と思うところがあります」

〈アリスの眠り〉では、「仕事も恋愛も人一倍頑張らないと、私は人に受け入れてもらえない」という思いが募るあまり眠れなくなってしまった、恋愛依存の女の子を。〈エデンの園のエヴァ〉では、産後の身体と心のつらさ、慌ただしさ、家族の無理解のなか、我が子をかわいいと思えないという苦しみから、パニック障害を再発した女性を―。当事者にしかわからない“心の詰まり”が物語のなかでは掬い取られていく。

「産後メンタルの危うさって、小説でもよく出てきますが、そこだけ書いたものはなかったのではないかなと。私がこの一冊でしたかったことは、その人たちの日常に寄り添い、“実際、こうですよね?”“今、こういう状態ではないですか?”ということをストレートに著し、“それはこうしたら、もしかしたら変わっていくかも”ということを、静脈注射のように注入し、読む方の心に効かせたかったんです。小説には薬みたいな役割があると思うんですけど、もっとダイレクトに」

 それだけに、物語にはこれまでにないほど窪さん自身が見えてくるよう。純さん、旬先生、さおり先生が若い人たちにかける、心の詰まりを溶かしていく言葉の数々となって。

自身の経験から紡いだ、明日につなげていく言葉

「私自身、ネガティブな方向へと考える癖があるんです。その考えの道筋は高速道路みたいに舗装されていて、これもダメ、あれもダメと、その道路を思考の玉がものすごいスピードで転がっていく。けれどその高速道路をいったん閉じることによって、少し楽になることもあったんです。3人の言葉には、私自身がこれまで気付いてきた、心を落ち着けられること、これなら明日につなげていけるかも、という考えや言葉を著しています」

 後半にある〈夜のカフェテラス〉では、なぜ旬先生が精神科医に、さおり先生がカウンセラーになったのか、〈ゆりかご〉では「純喫茶・純」の由来と、かつて離婚を経験したという純さんの来し方が語られていく。そこからは“これなら、なんとか明日につなげていけそう”と思うことのできる言葉が、なぜ彼女たちから出てくるのかという理由が示されていく。

「おばあちゃんが言ってくれた一言に救われるとか、世代を越えて差し伸べられる手のある物語が私は好きなんです。あまり同じ世代で固まらず、少し視線を遠くにやると、あなたのすぐ近くに、あなたが楽になる言葉を伝えてくれる人がいるかもしれないね、というのは私が生きてきたうえで感じてきたこと。この3人を通じ、そのことも伝えたかった」

 それは、困っている人になかなか手を差し伸べることができなくて、自分のふがいなさに身を縮めている人の心の詰まりも溶かしていく。「薄紙を剥ぐように良くなっていくからね、大丈夫」という旬先生の言葉のように、ゆっくり時を刻んでいく、この町での物語。ラストに示されるのは、“人ってちゃんと回復していくんだよ”ということ。

「心がつらくなったときって、この状態がいつ終わるんだろうって思ってしまうかもしれないけれど、人生ってずっと暗いままじゃない。かすかに光の射す状態は必ずやってくる。そこまでちょっとがんばってみませんか、ということを言いたいですね」

窪美澄
くぼ・みすみ●1965年、東京都生まれ。2009年「ミクマリ」で女による女のためのR-18文学賞大賞を受賞。同作を収めた『ふがいない僕は空を見た』山本周五郎賞、『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞、『トリニティ』で織田作之助賞、『夜に星を放つ』で直木賞を受賞。著作に『水やりはいつも深夜だけど』『夏日狂想』『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』など。