ラジオ放送作家の"いろは"を教えてもらった「オードリーのオールナイトニッポン」。必死にもがいた金の10年間/スターにはなれませんでしたが⑤

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/12

スターにはなれませんでしたが』(佐藤満春/KADOKAWA)第5回【全5回】

 オードリーや日向坂46メンバーなど多くの人気芸能人から信頼を集める佐藤満春氏が自身初の書き下ろしエッセイを刊行!「ヒルナンデス」「オードリーのオールナイトニッポン」など人気番組19本を数える放送作家のほか、お笑い芸人、トイレや掃除の専門家、ラジオパーソナリティ……といった様々な顔も持ち合わせる“サトミツ”の人生観や仕事観、芸人観を綴ります。さらに本書には若林正恭(オードリー)、春日俊彰(オードリー)、松田好花(日向坂46)、DJ松永(Creepy Nuts)、山里亮太(南海キャンディーズ)、安島隆(日本テレビ)、舟橋政宏(テレビ朝日)という豪華メンバーとの特別対談も収録。発売後即重版となり話題沸騰中の本書の一部を、5回連載でお届けします。

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スターにはなれませんでしたが
スターにはなれませんでしたが』(佐藤満春/KADOKAWA)

 放送作家としての一歩を踏み出したのは、2009年10月の「オードリーのオールナイトニッポン(ANN)」です。

 番組2回目の放送から、現場に立ち会わせていただくことになりました。ラジオの仕事をするためにこの世界に入った身としては、少しでも長く、多く、ラジオの現場に関わっていたかったから、オードリーヘの感情を抜きにしても現場はわくわくするものでした。

 憧れの「オールナイトニッポン」の現場には、僕がずっと聴いていた「伊集院光のOh!デカナイト」を手がけたラジオ界の巨匠・藤井青銅先生もいらっしゃいました。なんと、僕が中学生時代に救われたラジオを作っていた人が、「オードリーANN」を立ち上げた人だったんです。

 これにはものすごい縁を感じました。

 青銅さんに仕事の相談をしているうち、「じゃあ、作家見習いってことで毎週来ちゃえば」と言っていただき、当時のディレクターである宗岡さんも賛同してくださったことから全てはスタートしました。

 ただ好きで現場を見に行っただけなのに、サブサブ作家の肩書もいただいて(そんな肩書本当はないけれど)、そのまま会議にも参加するようになりました。番組の会議では皆さんが温かく僕のことを迎え入れてくださり、最初の会議がこの番組でよかったなと今でも思います。

 ラジオの放送作家としてのいろはを教えてもらったのは、紛れもなくこの番組。ただ、最初はノーギャラで、こちらの熱と想いだけで行かせてもらっていたので、おしつけにならないように気をつけてはいました。

 青銅さんにもかねてから「ノーギャラで参加することに番組側が甘えはじめると思うから、そこは考えたほうがいいときが来ると思う」とアドバイスをもらっていたので、いずれどこかで番組とは距離をおかないといけないな、と思いつつ、しばらくはこちらも存分に甘えて会議に参加し、現場に立ち会うという形でお邪魔していました。

 まさに、ラジオ制作の基礎を教えてもらう修行の場でもあり、憧れの場でもあった空間。僕は何かをつかもうと必死にもがいていました。

 そこからディレクターの宗岡さんが声をかけた作家さんが入って宗岡さんとその方が大きく番組の流れを作る時期に突入。

 新しい作家さんが来ると、「オードリーANN」の空気は変わっていきました。僕自身はというと、何も変わらず、任される大きな仕事も特にはなく、メールを少し印刷する<らい。あとは放送前に若林君から相談を受けることがある程度。

 当時の「オードリーANN」には、番組についている作家だけではなく、事務所が雇った春日専属の作家が2人いました。春日が若林君以上に人見知りで、番組から勝手に孤立していたことを見かねて、事務所が仲良しの作家さんを雇ったのだと思います。春日の話し相手兼トーク構成担当という感じだったのではないかな。

 しかし、彼らは自然と番組から離れることになって、春日は再び1人になりました。番組での居場所が特になかった僕と、急に1人になった春日。我々が2人でいる時間は増えていきました。間もなく、僕は春日のトークゾーンの構成を任されることになったのですが、それも自然な流れだったのかもしれません。

 毎週毎週、春日から事情聴取のような形で話を聞き出し、トークのネタになるような話の聞き手として、唯一僕ができる役割を与えてもらうことができました。もちろん、僕が担当したからといって急に面白くなるなんてことはないし、上手くいかないことも多かったですが、トーク力で勝負するようなタイプではない春日という芸人が、ラジオで若林君に聞いてもらう(相槌やリアクションをもらう)前提でのトークが、たまに、ごくたまにできるようになっていきました。

 そこでふっと湧いて出てきたのが、春日への「人志松本のすべらない話」のオファー。珍しく春日に呼び出された喫茶店で、その話を聞きました。

「これは、思い切り変な話をしてみんなにつっこんでもらう形か、それとも本当にMVS(=MVP)をとりにいくか、どっちで考えてる?」

 僕がそう確認すると、彼は後者を選びました。

 そこから僕は、これまでの「すべらない話」で印象に残っている映像で、皆さんのエピソードの尺感を計測し、MVSを受賞したエピソードを研究。それから、春日とこれまでラジオで話して「若林君が面白く聞いてくれた」話をいくつか選びました。

「すべらない話」に持っていける話はおよそ5つか6つ。そのエピソードをちょうどいい尺感に仕上げる作業を毎週行いました。

 いつサイコロで当たるかわからないので、いろんなパターンをシミュレーションしましたが、何より気をつけないといけないのは、「最初に披露するエピソードで、絶対に勝手にスベっている感じをださないこと」。あれだけの優秀な聞き手がいるトーク番組は珍しく、弱い話でもトークカや表現力がなくても、皆さんのリアクションでどうにかなることはあります。一流芸人さんたちの手助けを、使わない手はありません。

 ただ、勝手にスベっていく(スベった様子に逃げる)と自爆してしまうので、それ以降のトークが聞けたもんじゃなくなってしまう。そんな印象を持っていたので、春日には「とにかく1つ目のエピソードで、ちゃんと面白い話ができるんだという印象を持ってもらおう」ということを意識していくことにしました。

 そして、万が一5つ目、6つ目まで回ってきた場合は、正直に「そんなにたくさん面白い話はない」ことを提示して短めのエピソードを出すところまで、準備していきました。

 収録の日、深夜にかかってきた電話。

「おかげさまでMVSを受賞しました」

 以降、春日はトークの話になると僕に必ず相談をしてくれるようになりました。

 これは、僕に何かしらの技術があって、僕がすごいという話ではありません。僕自身が「すべらない話」に出てMVSを取れるかというと絶対に無理ですし、そのメソッドがあるわけでもない。春日自身のパワーと芸人力でもぎ取った、そんな印象です。

 ひとまず、何かしらの結果になってよかったなという思い出です。

 その後も、春日のトーク構成と簡単な雑用で、引き続き「オードリーANN」にはお邪魔していました。このときもノーギャラだったので、責任感は特になかったかもしれません。どこかでまだまだお邪魔させてもらっている感覚というか。

 いろいろ重なったタイミングで、僕は番組から離れる決意をしました。やや仕事が忙しくなり始めたのもあるし、子どもが生まれたばかりだということもあるし。

 当時はよくノーギャラで他にもいろんな場所にお手伝いに行かせてもらってましたが、ノーギャラってある程度で線を引かないと上手くいかなくなる。そう考えるとこのあたりなのかなと。仕事はちゃんと「自分にお金を払ってもらえるだけの価値」を作れるかどうかが勝負なので。

 番組は離れるけれど、若林君とは友達のままだし、オードリーのネタ作りの際は手伝いにお邪魔するわけだし、まあここから自分としてちゃんと仕事できるようになるまでは「オードリーANN」からは距離を置き、次はきちんと「仕事」として局から依頼を受けたときに考えればいいかと思っていました。

 そこから数年後、「オードリーANN」が10周年武道館ライブを開催することになり、僕はその全国ツアーの漫オのお手伝いで、久々に番組へと関わることになります。これに関しては、本人たちと僕の関係性においてのネタ作りのお手伝い(ネタは若林君が1人で作るので、僕は合いの手を入れる程度)や、トーク作りのお手伝い(一緒の現場にいてうなずいてるくらい)で、ライブにも関わらせていただきました。

 イベントの前日に各地に入り、若林君とさまざまな場所を巡りながら雑談、合間にネタ作りとトーク作り、隙間でネタ合わせ、本番と慌ただしく過ごしていました。本番終了後も、慌ただしく東京に1人で戻りました。ありがたいことに、その流れで武道館のライブもお手伝いすることになりました。

 若林君とは長い間一緒にいるけれど、「オードリーANN」の全国ツアーから武道館までの1年間は、本当に命を削ってネタやトーク、ライブの演出まで手掛けていて、めちゃくちゃ大変だったと思います。とにかくまあ最高で最強なネタと笑いをよくぞ一番近くで体感させてもらいました。

 あのネタもトークも、僕は誰よりも早く目の前でできる過程まで見せてもらえてるのでありがたい話だし、武道館で1万人を沸かせる瞬間は「ここまでやってきてよかったね!」が大爆発して、気が付いたら笑いながら涙があふれるという(またかよと思われてしまうけど(笑))。

 武道館の前日には、「俺を武道館に連れてきてくれてありがとう」という感謝のこもった長文のLINEをくれた若林君。ライブ中はまあ目頭が熱くなったし、ライブ後、イベントの正式な作家ではない僕は全体の打ち上げには居場所がないので、楽屋の椅子を片付けていたところ、若林君が僕をずっと探してくれていたみたい。「どこいたんだよ、探したよ。もうこんなことないかもしれないから、写真だな写真」ということで、2人で武道館で写真を撮って。どこまでも粋で温かい男です。面倒なところはあるけど。

 ちなみに春日からも終了後、長文の感謝のLINEが届きました。一応、そういうちゃんとしたところはあります。気持ち悪いところもあるけど。

 僕にとっても、あれは金の思い出です。彼らの10年は僕の10年でもあった。この番組から巣立った僕が、他のところでしっかり結果を出して、再び呼んでいただいたという実感もちゃんと持てたのです。

 声がかかったら正式に番組に戻ろうと思っていたところ、それは現実となり、武道館終わりの4月から番組に戻ることになりました。その際、スタッフに向け、僕を作家で入れることを熱心にプッシュしていたのは春日だったそうです。

<続きは本書でお楽しみください>

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