17年間寄り添った女性が綴る、高倉健の最期の姿。稀代の映画俳優が私たちに教えてくれること
公開日:2023/4/11
親しい人や大切な人を看取り、見送ることは、何度経験したところで慣れるものではない。誰かを喪った後、涙が枯れるまで泣いて忘れたと思っても、思い出さないよう心に頑丈な蓋をしたとしても、ふとした拍子に悲しみがこみ上げてくる。丈夫だった人が伏せるようになり、健啖家だった人が食欲を失い、よく笑っていた人から笑顔が消えていく……病が進行するにつれだんだんと弱っていった姿を思い出しては、「あのとき、どうしてこうしてあげなかったんだろう」という後悔に苛まれる。そんないつ癒えるとも知れない悲しみを和らげてくれるのは、時と、周りの人たちの温かな励ましだ。
2014年11月10日にこの世を去った映画俳優の高倉健さんを看取り、見送ったのは、「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから」と生前の高倉さんから言われ、誰にも見せていなかった映画俳優の素顔を綴った『高倉健、その愛。』を2019年に出版した高倉さんの養女である小田貴月さんだ。しかしその本では高倉さんの最期の日々のことは書くことができなかったという。没後5年では、まだ早すぎたのだろう。それから数年が経ち、貴月さんに「高倉健さんの命の見つめ方を改めて綴りませんか」という提案があり、このたび一冊の本としてまとめられたのが『高倉健、最後の季節。』(文藝春秋)だ。本書は高倉健さんが命についてどう考えていたのか、生きること、死ぬことについてどう捉えていたのか、そして病に倒れてからの最期の日々が克明に記録されている。
本書は2014年の正月、出された食事はいつも残さずに食べ切る高倉さんが「貴、残していい?」と言った「第一章 冬うらら」から始まる。2月に入ってから体調を崩し、身長180センチの偉丈夫であった高倉さんが痩せ、身体の不具合を訴えるようになる。病院嫌いな高倉さんを貴月さんが諭し、本名の「小田剛一」で検査入院したところ、悪性リンパ腫と診断される。高倉さんは「先生! 何もしないとどうなるんでしょうか」と間髪を入れずに問うが、穏やかな表情を崩さない医師から「死にます」と告げられてしまう。その言葉に高倉さんは「そうですか……。人はいずれ死ぬんだけど、まだ、死ぬわけにはいかないんです。仕事があるんです。じゃあ、お願いします」と治療を選択、一時は寛解まで回復する。
高倉さんは病院で本名の「小田さん」で呼ばれているが、あくまで映画俳優・高倉健として振る舞い、どこまでもパブリックイメージを崩さない。しかし貴月さんの前では、まるで子どものように「早く帰るぞ!」「お腹が空いた!」と、ちょっとイラチな素顔を覗かせている。また人生を変えたという映画「八甲田山」など自身が出演した作品にまつわるエピソードを開陳する姿や、ご自宅での過ごし方(定期的に見直す映画のリストもあり、「冒険者たち」「ブリット」「ゴッドファーザー」「ディア・ハンター」「トーマス・クラウン・アフェアー」「グラディエーター」「マイ・ボディガード」が一軍だったそうだ)など、リラックスした高倉さんの姿も活写されている。また巻末には『文藝春秋』平成27年1月号に掲載された「高倉健、最後の手記」と、『文藝春秋special』平成25年春号に掲載された「いつまでも美しい人へ」という特集企画で「老いて美しき人」として選ばれた高倉健さんへの質問が「編集部からの10の質問に高倉健自らが筆をとった高倉健一問一答」として収録されている。
最後の命を燃やす高倉さんが闘病する姿、そしてそれを支える貴月さんの献身を読み進めるのは、なかなか辛かった。しかし「生きるとはどういうことなのか」を映画俳優・高倉健から教えられる本書は、生き切ることの大切さ、そして生を全うした魂は、その後の時代を生きる人を照らす光になることも教えてくれた。読後、高倉さんの座右の銘「我が往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」が心の奥深くに沁みてくる。
文=成田全(ナリタタモツ)