千利休、西郷隆盛が持っていたウラの顔? 教科書には載っていない舞台裏で日本を動かした黒幕たちの歴史
公開日:2023/4/20
権力者の陰で暗躍し、何かを画策して物事を動かす。負のイメージもある「黒幕」という言葉から連想されるのは、そうした人物像だ。日本の歴史の舞台裏には、時代ごとに様々な黒幕がいた。ただ、彼らはけっして負の存在ではない。実際には、日本を動かす存在として活躍していた。
歴史学者で東京大学史料編纂所教授である本郷和人氏の著書『黒幕の日本史』(文藝春秋)は、そんな黒幕という存在にスポットをあてた1冊である。有名どころからマニアックなところまで、歴史に名を残した16人が、それぞれの生きた時代に黒幕として何をしていたのか。各時代の権力の仕組み、日本社会がどのような力学で動いてきたかを、推理とともに紹介する本書より、本稿では誰もが知る千利休と西郷隆盛の黒幕エピソードを紹介する。
豊臣秀吉に仕え、影の権力を持っていた千利休
茶人として知られる千利休が、豊臣秀吉に仕える側近として活躍したということは、ちょっと歴史を知っていれば有名な話だろう。ではどんな黒幕っぷりだったのか。
1586年、九州の大名・大友宗麟が、薩摩の島津氏の攻勢が激しさを増したことを理由に大坂城を訪ねたとき、豪華けんらんな「黄金の座」に宗麟を招いた秀吉は、利休にお茶をたてさせた。その後、秀吉の案内により、宗麟は政権の調整役を担っていた秀吉の弟・秀長とも対面。秀長は宗麟に「内々のことは宗易(利休)、公儀のことは私に何でも相談しなさい」と言ったという。
このとき利休は、秀吉という絶対的な権力者に取り次ぐためのパイプ役を託されていた。権力者がいる以上は取り次ぐ権力を持つ者もいるのは当然で、利休はまさに発足して間もない時代の豊臣政権に欠かせない人物であったのだ。
ただ、1591年になると、利休は大坂城のある堺から追放されてしまう。著者はその理由について、利休を黒幕としたシステムが不要になったからと見ている。当時は石田三成をはじめ、自前で育てた実務官僚が政権下で台頭した時期。時代の変化に合わせて、利休は役割を終えたのだった。
人格者のイメージとは裏腹な、黒い一面を持つ西郷隆盛
日本の歴史が大きく動いた幕末の時代、倒幕をめざした西郷隆盛に「誠実な人格者」のイメージを持っている人は多いのではないだろうか。しかし、暴力路線を貫き、幕府を倒すためには相当ダーティーな手段にも手を染めるほどの人物だったと著者は見ている。
本書が西郷を紹介するのは、西郷が「歴史上、広く名が知られているが、実は、隠れたところで仕事をしていた」という意外な黒幕部分に当てはまるためだ。
例えば、徳川慶喜が土佐藩から出された大政返上案を受け入れ、統治に関するすべての権限を朝廷に返上した、歴史的にも知られる「大政奉還」のあと。すでに幕府の権限が新政府へ移行されてもなお、西郷たちはあくまでも武力による倒幕を考えていた。
当時、熱気を帯びる西郷たちは江戸の薩摩邸に出入りする浪士たちを使って、江戸の町にいる商人たちを襲わせた。金品の強奪のみならず住民が殺害されることもあり、幕府も手を出せない状況に。西郷たちが金で雇ったゴロツキたちは、じつに、数百人規模に達していたという。
一般的には高い人格を持った英雄のイメージとは裏腹の、驚くべきエピソードのひとつだ。ほかにも、頭の切れる陰謀家の一面もあったと著者は述べる。ただ、本来の人格があったからこそ「二百六十年続いた徳川政権を終わらせ、新しい時代を開く、大仕事を成し得た」と評している。
ほかにも、源頼朝の正室としてのちに鎌倉幕府を率いた北条政子や大河ドラマの題材となった黒田官兵衛といった、いわゆる主役級の人物のほか、あまり名が知られていないが歴史の転換点を作ったまさに黒幕の人物たちが本書で紹介されている。教科書に書かれていることは当然ながら歴史の表面的な部分のみ。あの出来事や事件はどんな人物たちが、どんな意図で引き起こしたのか。陰に隠れている真実や可能性をのぞいてみると、人間臭さすらも感じることができる。歴史をより身近に感じられるかもしれない。
文=カネコシュウヘイ