娘のいじめ、陰謀論、タワマンの後悔…現実とフィクションの狭間で我が身を振り返らずにはいられない、コミックエッセイシリーズの魅力
更新日:2023/6/1
もしも我が子がいじめをする加害者側だったら。母親が気づかぬ間に陰謀論者になっていたら。身近にひっそりと自分に対する悪意を育てている人がいたら――。誰しも他人事ではない、日常に潜む暗闇を描くKADOKAWAのセミフィクションシリーズ「立ち行かないわたしたち」。
セミフィクションとは、現実の出来事や人物から着想を得たコミックエッセイ形式のフィクション作品のことで、その生々しさから物語に引きずり込まれる読者が続出している。
「すごすぎて一気に読了。シンプルなコマ割りと可愛い絵柄なのにずっとドキドキしてしまう内容だった」
「モヤモヤの残る終わり方だった。だからこそ我が身に同じことが起こったらどうするか?を考えることのできる本でした」
「人間不信気味の私にとってはサスペンス超えてホラーのような。苦しさと共感でもだえました」
それぞれの異なる3作品に寄せられた感想だが、どれもシリーズ全体に通じる声であるように思う。ただおもしろいだけでなく、我がことのようにとらえて日常をふりかえり、ひやりとさせられてしまう。それこそが本シリーズを刊行する意図であると、シリーズ統括編集長山﨑旬は語る。
「フィクションとエッセイの境界をあえて曖昧にしているのは、内容自体がフィクションであっても、作品のなかに登場する人物の体験を、読者にも他人事ではなく “わたしたちの物語”として想像してもらいたいからです。どの作品においても、登場人物たちは思いもよらない出来事に遭遇します。信じていた人に裏切られたり、家族との関係を引き裂かれてしまったり、子どもがいじめの加害者や被害者になったり。そうした大きな困難に直面した時、あるいは困難に直面している人を見かけた時、わたしたちはつい自分の物差しだけで他人を判断してしまいがちですが、人には人の数だけ抱えている事情があります。身近な人、周りにいる人の背景を少しでも想像できるような、そんな作品を刊行していければと思っています」
6月1日(木)にはシリーズ最新作『タワマンに住んで後悔してる』が発売された。ここで全作品の内容に触れてみよう。
『わたしが誰だかわかりましたか?』(やまもとりえ)
シリーズ一作目である本作の主人公は、中1の息子を連れて離婚したばかりの42歳、シングルマザー。さまざまな我慢や苦痛を経てようやく離婚に至ったのに、友人からはまるで我儘で贅沢であるかのように言われ、会社でもひそひそ噂される日々。そんななか出会った取引先のやはりバツイチの年下男性に惹かれ距離を縮めていくのだが、相手は思わせぶりに翻弄してくるばかり。……と、ここまではよくある話のように思えるのだが、実は主人公の知らないところで、思わぬ人たちからの横槍が入っていることが次第に明かされていく。
誰しも、自分の苦しみの事情には詳しいが、他人のそれにはどこか無頓着で鈍感だ。気づかぬところで大事な人を傷つけているのもまた、よくある話。関係が近しいほど、相手は何も言わないまま怒りを醸造し、理不尽な悪意を互いにぶつけあうこととなってしまう。「わたしが誰だかわかりましたか?」。それは誰かを無邪気に傷つけた自分への警句。自分だけが苦しくて大変だと思ってはならないという、戒めを読者に突きつける作品である。
『母親を陰謀論で失った』(ぺんたん:原著、まきりえこ:著)
noteで発表された原作者の実体験に基づいたもので、タイトルどおり、コロナ禍において陰謀論者となってしまった母親との断絶の物語である。
陰謀論者、と聞いて馬鹿にするのはたやすい。だが何が真実で、どうふるまうのが正解かはっきりしない状況のなか、不安と心配に呑み込まれ、藁をもすがる思いで陰謀論に傾倒し、戻れなくなってしまった人たちは少なくないだろう。
主人公の母親は、優しくて思いやりに溢れた人だった。家族のことを心配し、どうにかみんな無事に生き延びてほしいという、ごくあたりまえの善良な願いが根本にあるからこそ「わかってほしい」と息子たちに訴えかける。けれどまともにとりあってもらえないどころか、馬鹿を見るように否定され、ますます意固地になっていく。みんなを「目覚めさせる」ために、使命感に燃えていく。そんな母親の気持ちに寄り添い、主人公も自分なりに情報を集めながら、冷静に話し合いを試みるのだが……。
「良かれと思って」が暴走して結果として周囲を傷つけ、断絶に至る。それは陰謀論に限ったことではない。間違いではあっても、悪ではない。そんな感情のこじれが、読み終えたあともやるせなく残る。そして考えてしまうのだ。もし自分の家族がそうなってしまったら。そして自分自身が歪んだ正義にとりつかれた時、果たして周囲の声に耳を貸して、戻ってこられるだろうか、と。
『娘がいじめをしていました』(しろやぎ秋吾)
うちの子に限って、というのはきっと、親バカの言うセリフではない。ほとんどの人は、子どもが道を踏み外さないよう、誰かを傷つけたりすることのないよう、懸命に教え育てているはずだ。だからこそ驚くのだ。我が子がいじめの首謀者であったと聞かされた時「そんなまさか」と。自身もいじめられて苦しんだ経験をもつ主人公はなおさらだ。「そんな子に育てた覚えはない」というのは決して責任逃れなどではなく、本心だろう。実際、そんなふうに、育ててなどいないのだ。
子どもというのは、親の手を離れて勝手に成長していく。喜ばしいことである反面、それがどんなにおそろしいことなのか、本書を読んでいるとまざまざと思い知る。だからといって、娘に罪を自覚させるためにただひたすら罰すればいいのかといえば、そんなことはもちろん、ない。受け入れがたい娘をそれでも愛し、ともに乗り越えていかねばならない加害者側の親の心理を、これほど丁寧に描いた作品はこれまであまりなかったように思う。
やがて娘は、SNS上で叩かれ、いじめられる側へと転じる。保護者会では、被害者の親をはじめとする全員につるしあげられ、この世の悪として裁かれる。当然だ。自業自得だ。でも本当に? いじめられていた子の母親を通じて、被害者が加害者に転じていく姿を描いていくのもまた壮絶である。
子を育てるとは、向き合うとは、いったいどういうことなのか。答えが出ないからこそ、読み終えたあとも残り続ける重たいしこりのような感情が、きっと世界からいじめをなくす一助になると信じたい。
『タワマンに住んで後悔してる』(窓際三等兵:原著、グラハム子:著)
Twitterのタワマン文学の生みの親である窓際三等兵氏の原作で描かれた最新作。タワマンとは、いまや、言葉の響きだけでマウンティングやママ友間のドロドロした感情を想起させるアイコンになっているが、上層階と下層階とでわかりやすく示される経済格差や常識の違いは、やはり住人の人間関係に少なからず影響を及ぼすのだろう。自分だけは呑み込まれまいと、平静を保っているつもりでも、他人からの評価はじわじわと内面に侵食していく。
九州の田舎から上京し、タワマンの6階に住むこととなった主人公もそうだった。プロ野球選手をめざす息子があっというまにエースとなり、上層階のボスママに目をつけられてしまった彼女は、居心地の悪い思いをしながらも、親しくなれるママ友を見つけてどうにか平穏を保っていた。けれど、その友人は美人で、忙しく働いているのにいつもおしゃれ、素敵な夫がいて子どもも優秀。自分の家よりも高層に住んでいるから、経済状況がいいことも明らかだ。親しくなってしまったからこそ妬みに近い羨望が生まれ、主人公は息子にも受験勉強を強いるようになっていく。
よそはよそ、うちはうち。なんて言葉が生まれるのは、誰しも比較することから逃れられないからだ。馬鹿にされないため、見返すために始めた努力の暴走で家庭を歪ませていく主人公の姿は、決して誰にとっても他人事ではない。
マンガだから、セミフィクションだからと気軽に手にとって読み進めるうち、自分の心に潜むいくつかの穴に気づかされるのが、本シリーズの凄みだろう。自分一人なら見ないフリをすることもできた穴は、他人が介在したとたんに、あっというまに掘り起こされて、底の見えない巨大な暗闇へと変わる。落ちないために、呑み込まれないようにするために、本シリーズのような作品は存在するのかもしれない。
文=立花もも