日本の公教育に足りないものとは?「与える」「受ける」のみから脱却し、自律した社会をつくる方法

社会

公開日:2023/6/12

公教育で社会をつくる ほんとうの対話、ほんとうの自由
公教育で社会をつくる ほんとうの対話、ほんとうの自由』(リヒテルズ直子、苫野一徳/日本評論社)

 学習指導要領に則ったことを教える。日本の公教育において当たり前に実践されている基本方針です。『公教育で社会をつくる ほんとうの対話、ほんとうの自由』(リヒテルズ直子、苫野一徳/日本評論社)は、その「当たり前」が今後もずっとそうあるべきなのかと、一歩立ち止まって考えさせてくれる一冊です。

 公教育で理想とすべきは「異なる他者と共に生きる力を育む」場を醸成すること。この理念を世の中に浸透させようとする本書は、2名による共同執筆書です。リヒテルズ直子氏はマレーシア、ケニア、コスタリカ、ボリビアなど世界各国に居住した後に、オランダを拠点に据え、翻訳や通訳、執筆の傍らでオランダの教育と社会事情に関する調査研究や、その普及活動を行っています。熊本大学大学院准教授の苫野一徳氏は、早稲田大学大学院で哲学を軸に教育学を修め、「よい教育とは何か」「そもそもなぜ勉強するのか」「自由とは何か」というような根本的問いかけをテーマにした著作を多数発表してきました。

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 たとえば、メディアで話題になることも多い「叱ること」「罰を与えること」に関しては、そもそもルールづくりから子どもたちが行うことが理想として掲げられています。

叱ったり罰を与えたりすることは、「法の支配」という観点からすると、意味がありません。むしろ独裁・専制に近いものです。教師の「みんなでどんな約束をしていたかな」という言葉かけは、「あなたもルールを決める時にその話し合いに参加していたのでしょう? それならば、あなたにはこのルールを守る責任がありますね。それなのにどうして守らなかったの?」という意味なのです。

 叱ったり罰を与えたりすることは、「なぜ○○できなかったのか?」「どうすれば○○できるのか」と子どもたちと時間をかけて考えるより楽です。しかし、手間を厭わずにひとつひとつの状況に向き合っていった先にしか、抜本的な構造改革は成されえないと本書は主張します。

 具体的には、現状の捉え方で大人が叱りたくなったり罰を与えたくなったりする状況が生じたときは、そもそもその状況を「問題」と捉えないのがスタート地点となります。好ましくない素行の生徒がいたり対立が起こったりしてしまうのは当然だという前提に立つと、それらは「約束事(法)」をつくる好機と捉えられ、「面倒」という見方もされなくなり、「大人がつくった仕組みに子どもが従う」という一方向的な構造が解消するようなダイナミズムが醸成されていくからです。

 4章立ての本編の最後に収録されている、文化庁次長の合田哲雄氏と2人の著者の鼎談の中で、苫野氏が引き合いに出しているエピソードからは、子どもを大人に従わせる構造を担保している大人たちもまた、個性や私的記憶を抑制されている不自由を感じ続けてきたことが明らかになります。

親しくしている先生が、研究主任として、対話ベースの校内研修づくりを実践されています。そこでは、まず、自分はなぜ教師になったのか、どんな学校にしていきたいのか、子どもたちのどんな育ちにかかわりたいのか、といった青臭い話から始めます。そうすることで、普段は表面的にしかかかわれない先生同士が、より深いところで理解し合えたりするんですね。

 個々人の思いを「現れさせる」ような対話の機会を設けていくことで、公教育の場が地域の自律性を育む起点になり得るという気付きを与えてくれる本書は、教育従事者や子育て中の保護者だけではなく、自律的な組織マネージメントを模索する企業の経営者・リーダー層にもオススメの一冊です。

文=神保慶政