大学生のときに345(みよこ)と出会う。スリーピースバンドを結成し、バンド名を「凛として時雨」に決める/凛として時雨 TK『ゆれる』⑥

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/26

ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)第6回【全9回】

 ロックバンド「凛として時雨」のボーカルとギター、そして全ての作詞と作曲を担当するTKさん。その独創的な視点で表現する音楽は唯一無二。人々を魅了するTKさんの音楽はどのようにして生まれてきたのか。初めて人に歌を聴かせることを意識した中学生時代、エレキギターの音との出会い、母親に反対されながらも音楽の道へ進むと決めたとき、そしてバンド結成への道のり――。『ゆれる』は、途中ですべてをひっくり返しても表現したいものを突き詰める、そんなTKさんの音楽人生を綴った初の書下ろしエッセイです。

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ゆれる
『ゆれる』(TK/‎KADOKAWA)

結成

 凛として時雨のベース&ボーカルである345(みよこ)とは、大学1年の頃に、好きなガールズバンド、GO!GO!7188のコピーバンドのメンバーとして出会った。

 まわりに音楽仲間がいなかった僕は、誰かと音楽がやりたくて一緒に音を出せる人を無性に求めていた。誰のコピーをしてどうなりたいとか、その先にあるものよりも、「自分の手の先から何かを発してみたい」という純粋な欲求だったと思う。確か、345の友達とお互いに自己紹介をしたり、過去にやっていた音源などを持ち寄ったりして、そのコピーバンドは結成されたはずだ。

 僕はあまり記憶にないけれど、そのとき僕はそれほどコピー音源がなかったからか、高校時代に歌の上手い友達とコピーしていたB’zの「calling」のMDを渡していて、それが彼女からすると衝撃だったらしい。高校生のデモにしては上出来だったのか、「GO!GO!7188のコピーをやりたい人」という名目で集まる予定なのに、B’zの音源を送ってくるヤバさが衝撃だったのかは定かではないけれど。

 GO!GO!7188のライブ後だっただろうか。初めての顔合わせをした。メンバーは女性3人だったが、姉のいる僕は男が一人という環境になんの違和感もなく、好きな音楽ややってみたい音楽の話をした。社交的で友達の多そうなベースの子の親友として、口数の少ないギター&ボーカルの女の子が横にいた。僕の脳内にあるバンドをやっている人物像からはあまりにかけ離れている、おとなしく地味に見えたその子が345だった。初対面で抱いた「控えめで人に寄り添うタイプ」という345の印象は今もそんなに変わらないが、根底にはぶれない芯の強さを持っている人だと直感した。

 僕がギター、345がギター&ボーカル、345の友達の女の子がベース、そしてドラムは先輩のパワフルな男性を経て、ベースの子の友達の女の子が正式に加入した。そのバンドは、女性ボーカルのバンドのコピーやオリジナル曲でのライブをこなしながら、2年近く活動したが、ドラムの子は既に就職をしていて、短大に通っていたベースの子の卒業と共に解散することになった。バンドを続けることができないと僕らに伝えたときの彼女たちの申し訳なさそうな顔と空気は、なんとなく今も覚えている。

 きっと、バンドでなくても、異なる時間軸の中で共存する先に必ず現れるあの瞬間の儚さ。止めることもなく、尊重し、誰がどう見ても仕方ない分岐点に立たされたときに感じる無力感。自分の中に流れている時間が、当たり前に他の誰かと同じように流れていると錯覚してしまう。一秒間の概念はきっと人によって違っていて、どこかでちょっとずつずれていったんだろう。ただ笑い合って音と戯れていた時間がふと消えて、突然取り残されてしまったような気持ちだった。

「もう少し音楽を続けたいね」

 人生を決定づける瞬間は、あまりにも自然に、淀みなく湧き出るものなのか。大学生活をあと2年残していた僕と345の意見は一致したものの、僕たちは新たなメンバーを探す必要があった。あの頃はドラムを探すのがとても大変で、ましてや僕のまわりにはあまり音楽仲間もいなかった。追加メンバーを2人も探す労力を思うと気が進まず、345がベースに転向し「あと一人、ドラムがいればいい」という状態にして、ドラムを探すという結論に至った。

「ギターが弾けるなら、弦が2本減るだけだからきっとベースも弾けるよ」

 ベーシストが聞いたら怒るような横暴な僕の提案にも、345は苦言ひとつ呈せず、素直に引き受けた。自分の楽器を変更してもかまわないほどに、追加メンバーを探すのが億劫だったのかと思うと少しおかしい。

 345はああ見えて、僕より思い切った決断をすることがある。「2本減る代わりに弦が太くなるじゃん!」と言わない辺りが、まさしく345という感じだ。本当は思っていたとしてもおかしくない。あのときはごめん。

 同時に、ツインボーカルといえど、僕がメインボーカルをやることになってしまった。家族とカラオケで歌っていた小学校の頃から遠ざかっていたもの――〝歌〞にあえて触れようとしたのは、自分の声が自分の紡ぐ音楽にとって必要だと、どこかで感じていた上での覚悟だったのかもしれない。

 結成当時の話はこれまで数多くのインタビューでもしてきたけど、メンバーを探すのが大変だったという話と、自分がボーカルをやる理由がどうも結びつかない。345がベースを担当してスリーピースにするまではいいとして、まさか歌いたかったのか、あのときの僕は。自分の歌すらも見つけていない2人がツインボーカルという形を取ったのは今思えば奇妙で、奇跡的だ。

 345と2人で続けることが決まった頃、僕は「鮮やかな殺人」という曲を作っていた。僕はその曲に覚えたてのMIDI音源でドラムの音を打ち込んだ。先に自分のやりたいことを音源にして、「このドラムを叩いてくれる人」という形で募集した。

「どのバンドが好き」というのは、コピーバンドやオリジナルバンドを作るときの礎になるが、どのバンドにもそれぞれ表情や時間の制限がある。そんな中で、会ってから楽曲を作って、お互いの好みを擦り合わせる時間を取っ払いたかった。きっと、自分の中にあるインスピレーションに対して、焦っていたのかもしれない。

 特に期限は決めていなかったが、あと2年もしたら訪れる卒業に対しての意識は少なからずあったはずだ。自分が作った音楽でどこまでいけるのか。そのささやかな興味と共に作り出した「鮮やかな殺人」が、どうやって生まれたのかをまったく覚えていない。ただ、誰かのコピーをしながら、お互いの音楽の価値観を合わせていきながら、オリジナル曲を作っていくには時間が短いことを、その前身バンドで痛いほど感じていた。僕は僕の奏でたいものを作る。そして、そこに何かを感じてくれる人が入ってくれるのが理想だった。

 それほど意見を主張するタイプでもなく、あまりクラスで目立たない存在――そういう面では似ている僕と345が、それぞれ違う大学に通いながらも、残された2年という貴重な学生生活の中で、「音楽をやりたい」という純粋で妙に強い信念を持って引き寄せられたバンド。僕たちと共に、同じ方向を向いて歩みを進められるドラマーが現れるのを信じて、連絡が来るのを待った。

 ほどなく、僕の曲を叩きたいと言ってくれるドラマーが現れた。スリーピースバンドになった僕たちは、バンド名を「凛として時雨」に決めた。最初に書いた「鮮やかな殺人」「TK in the 夕景」は、どちらも劇的な展開をする楽曲で、その複雑でテクニカルに聴こえる構成に、「プログレを聴いて育ったの?」とよく言われるほどだった。プログレというジャンルを聴いたことなかった僕だったが、突然降って止む雨のように、そしてどこか冷たいあの音の質感をバンド名に込めた。僕たちは何度もリハーサルを重ね、スタジオ近くの「ガスト」に入り浸って、夜中までよくミーティングをしていた。

 オリジナル曲も少しずつ増えてきた頃、偶然目に留まった「池袋手刀(チョップ)」という新しいライブハウスにデモテープを持って行った。2002年、僕たちの結成のすぐ後にできた池袋北口にあるライブハウスだ。普段だったら近寄らないエリアだが、面白い名前だし、「新しいならきれいそう」という理由だけで選んだ。

 イメージしていた通り、小さなマンションの一室に並んだテーブル、タトゥーの入ったドレッドのスタッフの方が、物静かに僕たちのテープを受け取り、その場で聴いてくれた。最初に作ったデモの打ち込みとは程遠い、再現できているかどうかも分からないいびつな演奏だ。音が流れているはずの事務所内に静寂を感じていたのを、今でも強く覚えている。「今もしかしたらここは無音なのか」と思うくらい、僕たちのデモは誰にも聞こえていないようだった。

 ドレッドのお兄さんは、聴き終わると「僕、面白いと思います」と淡々と言った。「面白い」という言葉の温度感が、そこにはあまり感じられないほどドライに。見かけによらず優しい言葉をかけてくれたように思ったが、数年経ってからその頃のことを聞くと、本当に何かの可能性の欠片を感じてくれていたみたいだった。その後、そのドレッドのお兄さんこと堀井さんは、各地方のライブハウスに電話をして僕たちのブッキングをし、ライブハウスで働きながら僕たちと共に幾度のツアーを回ってくれた。ちなみに各地のライブハウスでやたらと見かける凛として時雨のステッカーは、ほとんど堀井さんが貼ったものだ。おかげで当時、「ステッカー見ました!」とよく言われた。「スクール水着345」という謎のステッカーを作ったのもこの人だ。

 詳しくは後述するが、僕が突然自分のメロディーラインを1オクターブ上げたことによって、今の切り裂く高音のボーカルスタイルが確立された。だけど、実際その過程では裏返ることの連続で、果たしてそれが音楽的に成立しているのかどうかすらもまだ分からない状態だった。何度もスタジオに通い、録音をして自分のイメージにどの程度近付けたかを確認する。いろいろなものが変わったとしても、出した音に対して、それが求めているものかどうかをシビアにジャッジする癖は今も変わらない。ほんの少しだけでも理想に近付けたときは心が震えるし、そうじゃないときは、何がそうさせているのかを脳がすり減るほど繰り返して考える。狭いリハーサルスタジオの上に吊るされている2本のマイクが、横に置かれたミキサーという機械に繫がれ、僕たちの練習の音がテープやMDに録音される。空間に鳴っている音が収音されたその曖昧な音源だけが、あのときの自分たちを測るたったひとつのバロメーターだった。

 僕たちが最初にイメージをして、音と共に創り上げた凛として時雨になるまでのスピードは、繰り返し行った練習量に比べると、とても遅く感じていた。僕にしては妙に明確にスタートラインが見えていたからこそ、学生である自分の期限に対し、焦燥感に苛まれていた。誰の演奏が軸になるわけでもなく、最初に作った楽曲のデモの足元に這いつくばるので精一杯だった。

 時間的なものだけではなく、歌うこととギターを弾くことが、同時に脳内で処理されることへの戸惑いもあった。意識では同時に処理をしようともがくが、手元も、足元も、口元も、すべてがオーバーフロー寸前だった。焦りや綻びを生み出しているのが自分自身だと確信していたからこそ、僕がギターボーカルとして〝1/3〞になれるまでの時間は恐ろしく長く、コンプレックスを簡単に裏返すこともできない中でもがき続けていた。

 3人とも限界を超えているはずなのに、理想へはまったく近付いていないような感覚が、ひたすら繰り返されていた。

 バイト、学校、練習スタジオが目まぐるしく交錯する中、「池袋手刀」での初ライブを経て、そこからさまざまなライブハウスに出演するようになっていった。

 ライブを重ねていく中で、3人の音に対する欲求は、よりリアルなものになっていく。重力に従っていたのか、逆らっていたのかすら分からないほど充実し、喪失し、無心に自分が作り上げた理想像を追いかけていた。少し階段を登っては、その場所から見える3人の景色を確認しながら、上へ、もっとその上へと目指していく。

 あのときの貪欲さは異常だっただろうか。結成から一年が経った頃にようやく〝0〞から〝1〞になりかけていた僕たちは、明らかにそこから停滞していく。まっさらな紙がスーッと水を吸収していき、いつの間にか満杯になってしまった僕たちは、もう何も吸収できずに溢れてしまうようになった。少なくとも自分の目にはそう映っていた。

 音楽の形を「音楽ができている喜び」だけでは満たすことができず、幾度もの話し合いを経てドラマーは脱退した。時間をかけて何度も死と再生を繰り返すかのように、互いに痛みを伴っていたと思う。覚悟を決めた決断だった。

 メンバー脱退の先に上手くいく保証なんて何もなかったが、自分の音楽が僕を待ってくれないような気だけが強烈にしていた。濃密に人と、音楽と、自分の人生の岐路が絡み合い、思考も心もボロボロになりかけていた。

 僕は、自分の音楽を信じている自分を信じてみた。直感か、勘か、ただ目の前に見えている真実をすくい取るだけで精一杯だった。

 脱退前に決まっていたイベントの主催者へ、急遽出演キャンセルの旨を謝罪と共に連絡する。「じゃあ俺に叩かせてほしい」と申し出てくれたのが、主催者として僕が連絡を取っていた中野君だった。その少し前、突然メールをくれて「六本木Y2K」のライブに現れたのが初対面。まだステージ上で片付けをしている最中に元気良く話しかけてきた、妙に大きなダッフルコートを着ていた人物だ。

 そうなることが運命だったかのように、新体制への準備は進んでいく。僕が働いているスタジオで初めての音合わせが行われた。中野君のあまりの手数の多さに、僕と345には衝撃が走る。その衝撃が薄れるほどスティックを回す斬新なプレイスタイル。

 まだあのときはトライアングルとしてはいびつだっただろうが、探しても手に入らないような光が射し込んだ瞬間だった。奇跡にはまだ続きがあったようだ。

 自由自在にスティックを操る中野君は、「ピエロみたい!」と感激した345の言葉を経て、「ピエール中野」という名前にさせてもらった。凛として時雨を決定づけるピースが、突然僕たちの元に引き寄せられた。

<第7回に続く>

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