善を信じる欲求こそが悪政を正す。作家・島田雅彦が選んだ「いまの時代こそ読みたい3冊」【私の愛読書】

文芸・カルチャー

公開日:2023/7/7

島田雅彦さん

 さまざまな分野で活躍する著名人にお気に入りの本を紹介してもらうインタビュー連載「私の愛読書」。今回、ご登場いただいたのは、『時々、慈父になる。』(集英社)を刊行された作家の島田雅彦さん。作家生活40周年を迎える島田さんがセレクトしてくれた本は全部で3冊。一体どんな本なのか、さっそくお話をうかがった。

(取材・文=荒井理恵、撮影=桐山来久)

歴史の重さを痛感する『紙の世界史』

紙の世界史
紙の世界史』(マーク・カーランスキー:著、川副智子:翻訳/徳間書店)

――最初の一冊は『紙の世界史』(マーク・カーランスキー:著 川副智子:翻訳 徳間書店)ですね。

島田:私は一種のマテリアリストで素材に対するフェティシズムがあるんですね。これは「紙」の歴史について書かれた本で、紙は軽いけれど、その背後にある歴史というのは極めて重いものだと痛感させられました。もともと中国で発明された紙は門外不出の技術だったものがペルシャに伝わり、さらには13世紀にヨーロッパに伝わり、のちには紙幣にまで発展していきます。出版文化においても紙の時代がとても長く、1455年のグーテンベルク聖書が活版印刷の印刷物としては最初になります。実は紙の本というのは記録媒体として半不滅で、グーテンベルク聖書の初版本は今もちゃんと読める状態なんですよ。実際に私は手にとったことありますが、汗とか脂とかで端の方は虫食いがありますが、真ん中のほうは全然まっさら。つまりデータ保存の手段としても最高なわけです。

――デジタルデータでは消えてしまいますもんね。

島田:たとえクラウドにあげておいても停電したら使えませんからね。私自身はデータで読む本のほうが増えてきたところはありますが、それでも長年付き合ってきた書籍に対するフェティシズムはあります。経験的にはデータより紙で仕入れた情報のほうが記憶に残りやすいように思いますが、たぶん「手に取る」「ページをめくる」「重さを感じる」ーーそういう物質性にあるのでしょう。書籍の特性と身体性が記憶につながるんだと思います。

――「本」についても世界史的な観点でみていくとさらに発見がありそうです。

島田:活版印刷が始まってわずか数年で、それまでに流通した書籍の総量を凌駕したといいます。グーテンベルク聖書の初版はわずか150冊ですがその重みはすごいですよね。さらに出版文化は秘匿情報を公開する役割を果たしてきたので、時の権力に睨まれることもありました。だからこそ独立性が大事で、出版のパイオニアであるヴェネチアやオランダのデルフトには独自の市民意識や批判精神なんかがちゃんと育っています。その意味で「日本はまだまだだな」と感じたりもしますね。

――島田さんはそうした精神を引き継いで、結構、戦っていらっしゃる?

島田:うーん…しょっちゅう炎上もしてますけどね(笑)。

未来に対する希望の書『力と交換様式』

力と交換様式
力と交換様式』(柄谷行人/岩波書店)

――2冊目は柄谷行人さんの『力と交換様式』(岩波書店)ですね。

島田:柄谷さんとは非常に古いつきあいで、私はほとんど弟子みたいなものなんで、著作はほぼ全て読んでいます。この最新作は10年前に出た『世界史の構造』の補完的な本で、マルクスの読み替えをやっています。マルクスは「生産様式」の変容で社会の諸段階を分析していきますが、柄谷さんはそれを「交換様式」との関連性でとらえなおしています。柄谷さんがいう交換様式には4パターンあって、まずひとつ目の「交換様式A」は原始共産制みたいなもの。狩猟採集時代というのは基本的には財産の私有概念がなくて、交換は贈与という形で、それに対する返礼で成り立っているとします。続く「B」は、国家が成立したのちの交換様式で、税金を払う代わりに守ってやるとか、民から収奪してそれを再分配するとかいう国家と個人の契約みたいな形ですね。3番目の「C」は貨幣経済みたいなもので、資本を媒介にして交換の営みというのが市場を介して活発に行われる形。4番目の「D」はAの高度に発展した形式になるんですが、まだ名前がついていないんです。柄谷さんはこの交換様式Dこそが未来をつくるのだ、としています。

――マルクスの読み替えの本は、最近注目されています。

島田:資本主義というものに限界が見えているわけで、だからこそマルクスの読み替えが流行るし、その不備を補うための努力もいろいろされてきていますよね。たとえば貧富の差の拡大を補うために再分配を強化する社会民主主義みたいなもの、あるいは福祉国家のようなものは北欧とかフランスとかで実現しています。さらに互酬性を高度に発展させたものが未来の交換様式になるわけですが、それはまだわからない。具体的にいうならベーシックインカムなんかはそうかもしれないし、あるいはもっと違うものになるかもしれません。そういうことも含めて、未来に対する希望の書ではあるといえると思います。

――ちょっと難しそうですが、読み応えがありそうです。

島田:独特の断定調でせめてくるし、そんなに難しくはないですよ。しかももうひとつの柱である「力」の議論のほうには、ややスピリチュアルも入っているのですんなりはいってくるはずです。あらゆる人間の営みというのは、ある不思議な力によって動いているとして、その力はなんと表現すべきかと柄谷さんは考えていくんです。あらゆる行動の動機には、欲望とか利潤追求とかでは説明できない「霊力」といってもいいようなものがあるというんですね。私はその力の理論のところに興味がそそられて、どんな言い換えが可能かと自分なりに考えています。

――「霊力」ですか…。

島田:たとえばラテン語に「Credo」という言葉があるんですが、これは「信仰」と訳したり、経済活動では「信用」、人間関係では「信頼」と訳したりもします。もしもこの「Credo」がなかったら、経済も人間関係も宗教も全部崩壊するわけで、あらゆる営みの基本のところにあると考えてもいい。だって財布の中に1万円札が入っていたとして、そんなのただの印刷物でしょ。「1万円分の商品と交換できる」という信用がないと貨幣経済は崩壊してしまいます。宗教も万事がそうで、これなしには何も始まらないと考えると、ほんとに不思議な力だと思います。

――ベースにあるのがなにかしら「プラス」の感覚なんですね。マイナスではない分、希望があるかもしれません。

島田:そうなんですよ。政府がアコギなら自分たちもアコギに甘い汁でも吸わせてもらおうって人たちもいる中で、なんとなく道徳的本性みたいなものを発揮している政治家だっていますよね。人は本来「善」である、それに対する「信頼」を出発点に政治を立て直そうーーそういうふうにどの社会でも道徳的な欲求にもとづいた運動というのが必ず起きています。それが世直しまで発展していったときに、はじめて悪政がただされたり、革命がおきたりして社会変革がおきるんです。とりあえずそれを信じるしかないと思います。

●戦後の女性の状況をルポする『女の民俗誌』

女の民俗誌
女の民俗誌』(宮本常一/岩波現代文庫)

――最後の1冊は宮本常一『女の民俗誌』(岩波現代文庫)ですね。

島田:戦後すぐくらいの時代の女性のおかれている状況をルポルタージュ風にまとめた本です。最近、歌舞伎町のトー横に集まってくる家出少女たちが問題になってますけど、この本を読むとそういうのは今に始まったことじゃないというか、昔からそうなんだっていうのがわかります。この中でも印象に残っているのは農村の変容についての報告で、当時はラジオが農村でも普及していたし、まもなくテレビという時代だったので、農村と都心との生活様式の差というのもどんどんなくなっていったんです。初夏の農村というのは暑い中の雑草取りがいやで家出少女が一番多かったそうですが、みんなラジオドラマに影響されて「都心にはいい人ばっかりいる」と幻想を抱いて東京に出たようなんです。現実にはそんな親切な人はどこにもいないから結局は路頭に迷って、女衒に住み込みの仲居とかカフェの女給とか、さらには性的なサービスをやらされたりみたいになる。そんな感じで今とまったく同じなんですよ。

――確かに状況は似てますね…。

島田:変わらないこともありますけど、ずいぶん変わってしまった部分もあって、それがよくわかる本ですね。読んだのは結構前ですが、宮本常一にはまっていた時期があったので、ときどき思い出して読んでたりしています。

●今年は作家生活40周年!

――自分のアンテナに引っかかる本は、日頃はどんなふうに探されてますか?

島田:いろいろ送ってきてくれたりしますから、割と受動的なんです。自分で選ぶ本の場合には、SF書くときはサイエンス関係を読み、歴史小説書いていれば歴史書を読みと、その時々によって違いはありますね。『パンとサーカス』を書いていたときは陰謀論の本ばっかり読んでいましたね。

――本は毎日読まれますか?

島田:毎日ではないですが、読むなら昼ですね。やっぱり老眼だと暗いとしんどいし、2段組とか読めないし(笑)。ちなみに執筆はいつでもやりますよ。マックのバッテリーは持つので、電車の中でも書きます。

――いつからそういうスタイルですか?

島田:PCに変えたのはそんなに早くなくて、21世紀に入ってからです。それまでは原稿用紙にシャープペンシルで書いて消しゴムで消して編集していました。私は岩波書店の原稿用紙を愛用してたんですが、手元のものがなくなりそうなので問い合わせたら「もう作ってないので、在庫の2000枚が最後です」と言われてしまって。それで原稿用紙はやめました。

――書く感触は変わりましたか?

島田:もっと変わるかと思ったら意外と変わらなかった(笑)。手書きだと書き直しはすごく手間がかかるので躊躇しちゃうし、白紙がこわいというのもありましたけど、PCで書くようになると編集自在ですからね。ネットにもすぐつながるのでリサーチがものすごく楽になったので、歴史小説とかSFとかははるかに書きやすくなりました。

――最後に、今年は作家生活40年とのことですが、意気込みは?

島田:あまりにも政治の劣化が著しいので、なんとなく「正論」を唱えちゃってますけど、別に正論を唱えるのが商売じゃないし、むしろ愚行をするのが商売で(笑)。なので昔のように愚行を重ねる作家人生に戻りたいと思います。ただ、そのための条件は悪政が正されることだったりするので…。

――島田さんが安心して愚行できる世の中が来ることを願います!

島田:あとはまあ、40年も書いてるとさすがに少し飽きてくるんで、そうすると飽きとか退屈とかとの戦いということにもなります。チャレンジすべきテーマとか手法というのはだいぶやりつくしてきた感もある中で、じゃあどういう選択がありうるかが一番のテーマですかね。私はベートーベンの晩年の仕事が大好きなんですけど、それらは初期にかかれた構築的形式的な作品からものすごく自由になっていくんです。私もあの自由さだけは失いたくない。というか、あの自由さを追求したいと思います。今後はどうしてもレイトワークになるわけですが、その中でも自由さというのが一番の鍵になると思っていますから。

<第24回に続く>